Koy's blog

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2014年12月29日月曜日

大きく考えるより、小さく考える事も大事にしよう!

ハワイにいると、年の瀬という言葉にリアリティがありません。

もちろん、アメリカの公的な年度末は12月なので、それなりに「締め感」はあるのですが、
やはり日本の「いやぁ、もう年末ですね。今年はどうでしたか?」みたいな情緒とはかけ離れている。

自分は骨の髄まで日本的カルチャーが染み付いているから、ここ数日は新しい年を迎えるにあたり色々なことを考えた。

その一つが大きく考える事の弊害、みたいなこと。
そしていっそのこと「小さく考えてみよう」、ということ。


「小さいことの価値を考えてみよう」
このキャンペーンは当時の「でかく考える」至上主義のアメリカに衝撃を与えた。


積極的に「大きく考える事」を意識的に止めようと考えた。

若い頃に読んだ「大きく考えることの魔術」という本にインスパイアされて以来、僕は「Think big」の信者になってしまっていた。


これはこれで20代の僕に大きな影響を与えてくれました。名著の一つ。

新ブランドのロンチや売れなくなったブランドの再活性化みたいなワークショップでは率先して
「今日は、大きく考えましょう。Think BIG!です!
先ずは大きく風呂敷を広げて、ぶっ飛ぶようなアイデアを出しましょう」
とかやっていたのも自分だ。

大きく考えることは頭や常識のタガを外してイノベーティブな発想をするには役に立つかも知れないし、否定はしないし、したくない。


先ず大きく考えて、そこからスケールダウンさせて行った方が、最初から現実的、常識的な発想しているよりは得るものがあったとは思う。

ただ、その方法論はある程度、膠着した組織や製品サービスには有効でも、個人やマイクロビジネスにおいては弊害の方が多いかも知れないと思う様になったからだ。

雇われない生き方を選択して、気が付くのは「大きく考えている」だけでは、にっちもさっちも行かなくなるケースが多いからだ。


例えば、月に一回くらい息抜きを兼ねて「よし今日は少しでかい事を考えてみるか」というのは良くても、日常的に考えていても何の足しにもならない、という身も蓋もない現実に気付いてしまった。

むしろ、「Think Small」みたいに、小さくとも今やっている事の、微妙で些細な部分を改善したりすること。


年商10億円とか目指して日々ため息をつくより、今月○○百万とか聞こえはセコいけど、小さく現実的に考えた方が、けっこう価値がある発想や行動が出来ることに気が付いたのだ。

それはいつか起こるかも知れないビッグなイベントを待ち望むより、今目の前にある当たり前のことを真摯に考えて対応しよう、みたいなことかも知れない。


有名な話があります。
ある工事現場で、作業員に話しかける。

「あなたは何をしてるんですか?」
一人は「見りゃわかるだろう?レンガを積み上げてるんだ。」
二人目は「教会を作ってるんです」
三人目は「人が幸せになる場所を作ってるんです」

答えの抽象度が高ければ高い程、大きな目的を考えている人ほど人生で成功する、みたいな話で。
感慨深い。
良い話だ。

だけど、レンガを積み上げる、という行動そのものにも価値がある、と考えなくては、きっとダメだ。
三人目の答えを言った人も、レンガの積み上げ方がヘタクソだったら、今日限りでクビになってしまう。

大きな目的と、「今そこにある小さな事に目を向ける」、という両方のバランスが必要だという身も蓋も無い話だけど。

少なくとも目の前の小さなこと、小さな目標をドキドキワクワク感じるように自分を仕向けるほうが今の自分のマイクロビジネスでリアリスティックなライフスタイルに合致しているような気がしているのだ。

この冒頭のポスター「Think Small」は僕が尊敬する偉大なるアドマンの一人。

DDBの創始者であるビル・バーンバックが半世紀以上も前にアメリカで行ったビートルのキャンペーンのコピーだ。

この頃のアメリカの常識と言えば、どでかいアメ車、でっかく考えよう!でっかく生きよう!みたいなマッチョな考え方が主流だった。


そこに、アメリカ人からみて不細工なスタイルのビートルをいかにポジティブに市場に浸透させるか、というキャンペーン、それは大成功し、広告史に残る伝説なキャンーペーンとなった。

それは後のAppleの「Think Diffrent」にもインスピレーションを与えたに違いない。

僕は、取りあえず今このビートルの広告をiPhoneの待ち受けにしている。

そして、今日から自問するのだ。
「今、小さく考えているか?」「小さなことを大事にしているか?」と。

2014年12月20日土曜日

アロハな気分になれる、な写真を5点ほどセレクトしました。Aloha weekend!

毎週金曜になると、ハワイ在住の人達がフェイスブックやインスタグラムで「Aloha Friday!」
とアップしていて、なんだか穏やかな気持ちで週末に。

自分で撮った中で、そんなAloha気分になれそうな写真を5点、セレクトしてみました。


東京のオフィスで働いていた頃は、夕陽なんかあまり意識して見なかった。
というより見えなかったのかな。
太陽が沈むと一日は終わる、そういう事を意識していなかったんだと思う。
ローカル憩いのビーチは、常に穏やかだ。平日の朝から晩までまるで暮らしているかの様に、ビーチにいるファミリーもいる。

昔読んだ本にこう書いてあった。
ストレスを感じたら、瞳を閉じて、
綺麗なビーチにいる自分をイメージしましょう。
初めてラニカイビーチに来た時にデジャブ感があったのは、きっとそれをギュウギュウづめの通勤電車で何回も実践したからだ。

ハワイにいると、強烈に光と影というものの存在を感じる。
まるで、誰かがパームツリーを壁に描いたようだ。
写真では感じられないけれど、パームツリーの葉が優しく風に揺られている。
もう少しだけ、この景色と同化していよう。どうせ腕時計も持ってないし。



2014年12月18日木曜日

女性上司と相性が悪い。という男性からの相談。どうするか?自分の本当の顧客って誰だろう、と考えてみる。

大きな会社組織から離れて「マイクロビジネス」(個人で商売)を展開するようになって、すっかり組織人だった頃のメンタリティを忘れる様になってしまった。

ONとOFFみたいな概念がなくなってしまったので、四六時中ビジネスの事を考える様になってしまったし、一方で、意識的に自分を引き締めないとダラダラした毎日になってしまいそうになる。

そういう気分を軽く刺激してくれるような後輩からの相談を受けた。

社会人になって10年目を既に迎えた彼は悩んでいた。

どうしても上司とソリが合わない。


「彼女は、僕を鍛えるとか、失敗しても良いから、ドンとぶつかって来い、みたいな大きさが無いんです。
一々細かい所を指摘されて、感情的なのもつらい。彼女は僕の事を理解してくれていないんすよ」


「女性の上司とは僕は相性が悪い」、みたいな内容だった。

僕が東京に居れば、昔ながらの飲みュニケーションで、一杯飲みながらでも彼の愚痴を聞くのだろうが、
太平洋を真ん中に挟んで、時差も19時間あるのでメールベースのやり取りになる。

彼は、合コン好きなチャラ男であると同時に、不況をデフォルトとした時代に多感な10代と社会人のほぼ全てを過ごしているので、根は真面目で、勉強家の男でもある。


彼の相談を受けて思ったのは、「上司は親兄弟とは違うんだぜ」という当たり前のことだった。

彼は上司に親のような暖かい眼差しを求めていた。


相手は女性なので、もしかすると母性を無意識に求めていたのかも知れない。

そんなのは幻想である。

彼の結論は、「異性の上司」とは相性が悪い、という感じだったが、これはかなり見当違いの考えと言わなくちゃならない。

合コンで出会う女性と女性上司を混同している。


そもそも、合コンに来るような女性や男性は、シンプルに「異性」との出逢いを目的としている。


相手が、違うジェンダーであることが前提あるいは期待として求められている場所なのだ。

仕事の現場では生物学的なジェンダーは関係ない。建前はそう、ではなくて本当に関係ないのだ。


利益を目的とした集団、というシンプルなモノ以外の何モノでもない。

その女性上司が感情的と思えるのは、「女性が」ではなくて「彼女が」なのであって、しかもそれは、受け取る側の主観に過ぎない。


いちいち細かい指示をするのは、もしかすると彼の仕事っぷりに安定性がなく、心配なだけかも知れない。

上司と言うからには、責任のある立場であるはずで、彼のミスは彼女のミスになる。
飽和状態にあるような業界では、一回のミスが命取りになってしまうのかも知れない。
だから、彼女は彼に厳しいかも知れないのだ。

僕の彼へのアドバイスは、「君のお客さんは直属の上司である彼女なんだよ」というものだった。

彼の場合は、上司が女性だったので「ジェンダーの違い」が本質を見づらくしてしまったが、
きっと男性上司の場合でも同じような悩みは生じたはずだ。

何故かと言えば、多くの日本人にとって「会社はウチ」という発想が根強くあるからだ。
試しに、何人かのサラリーマンに会社の事を聞いてみるとしよう。

ほとんどが「ウチは・・・」と説明するはずだ。

居酒屋やバーでのサラリーマンの話題の多くは「ウチの社長」「ウチの上司」「ウチの新入社員」に対する
話だったりする。 

「ウチ」とはそのまんま「家」「身内」という意味だ。

別の意味では、「帰る場所」だったり「外と違って甘えを許される場所」みたいなニュアンスもある。


いやいや、さすがに自分の家と会社の分別はついてるよ、

何言ってんだコイツ?!とか思うかも知れない。

確かに。

でも、普段使う言葉と言うのは、普段意識しない深い所に結びついているはずなのでちょっと意識してみて考えて欲しい。

例えば、後輩の彼や多くの悩める会社員にとって、会社に対する愚痴の一つも言いたくなる瞬間と言うのは、決まって「自分を理解してくれてない」「私の扱い方がフェアではない」というようなモノだと思う。

僕はそういう話を聞く時、まるで身内というか「親」への文句と同じだな、とか思っていた。


確かに、「寅さん」のタコ社長の工場とか「三丁目の夕陽」みたいな高度成長期を支えた時代の中小企業とかだったら、社長さんが従業員全員の「お父さん」みたいな雰囲気もあったのかもしれない。

集団就職したような15歳くらいの人達にとっては文字通り「お父さん」だったのかもしれない。

今でも、日本全国探してみれば、そういう気概のある社長さんと牧歌的な古き良き日本の家長制度的な会社があるかもしれないし、嫌いじゃない。

でも、現代のほとんどのビジネスパースンはもっとドラスティックで現実的な企業に勤めているのだと思う。

そういう僕も20代の頃に勤めていた外資系企業で、会社や上司に甘えた期待をしていて、手痛い失敗をしたことがある。

それ以来、会社や上司は自分の客であって、「身内ではない」と明確に意識する様になった。

彼へのアドバイスのポイントは、
会社や上司を身内として見るのではなく、自立した個人としての自分のリアルなお客さんは誰か?
ということ視点で考えてみる、ということだった。

過去に同様の相談を複数受けた時に、それぞれこう聞いてみた「君のお客さんって誰?」


答えは「取引先」だったり「クライアント」だったり、「消費者」だったりした。

会社を代表して仕事に向かう、そういう真面目さに溢れた答えだと思う。


ただ、そういう時の僕のアドバイスは、「それは会社のお客さんであって、君のお客さんではない」というものだった。

「君のホントのお客さんは君の上司であり、会社だよ」って。

生活して行く為のお金を銀行に振り込んでくれる人がお客さんなんだよ、と僕は考える。


夢が無い、とかドライ過ぎる、とか感じる人もいるかもしれないが、「会社」や「上司」に対する不満は大概上に書いたような「ウチ幻想」に端を発しているので、自分が個人事業主のように振る舞って、上司を客だ、自分が在籍している会社が客だ、と発想を変えれば大抵の不満や悩みが消える事に気が付くはずだ。


このお客を満足させなくては、メシの食い扶持がなくなるのだ。


相談してくれた後輩が、取るべきアクションはその女性上司を自分の顧客として捉え、彼女のニーズを把握し、プロとしてソリューションを提供することだと僕は考える。

そのソリューションの中には、結果として彼女や会社の顧客の事を考えなくてはならないケースも多いだろう。

その上で、その上司なり会社なりが明らかに破綻を来したブラックなんだったら我慢する必要はない、とっとと辞めるか、出る所に出るようなアクションを取れば良いだけだ。

僕もそう考えてサラリーマンをやって来たが、
「こいつは信じられない程の人格破綻者のオタンコナスだな」みたいな上司がいたことがあり、当然だが、そいつを客だと思う事は止めた。

誤解して欲しくないのだが、上司が明らかにディレクションを間違ったり、人格が崩壊している場合は、別のソリューションを考えなくてはいけない、という事だ。

もし、自分に「甘え」があると思われる場合は、上司を客として考えてみよう、という話だ。

あくまでも、主導権は自分にある、ということも忘れてはいけない。精神の奴隷になってはいけないからだ。

極端な例だが、僕が海外で経験したある著名なCM監督(フランス人)との仕事がある。

その監督も女性だったが、まわりのスタッフはそのCMを見る事になる日本の消費者のことなど一切気にしていなかった。

彼らは、その監督に雇われているという意識がクリアなので、余計なことを考えず、監督の満足度をいかに高めるかという仕事っぷりだった。

雇われた以上、要求が高くても、細かくっても何でも来い、オレはプロなんだ。

そういう気概に溢れていた。

僕は、プロとはこうあるべきなんだろう、と感銘を受けた。

自分をプロだと自覚するなら、そういう自分を雇っているのは誰か?
それを見極めるべきだが、日本の会社ではそこら辺が曖昧だ。

社長?人事部?上司?
確かに、会社には雇われているが、日常で意識するには漠然としている感じがする。

確かに、取引先の事や消費者のことを第一に考えて行動するというのは理想的かも知れない。


が、あくまでも理想論である僕は思う。


当然そのように考えることも重要だが、後輩の彼の様な不満がある場合は、会社や上司を身内と思うような子供染みた期待は一切捨てる方が得策だ。

帰る家は、ホントの自宅や実家(もしかしたら、行きつけのバー)であって、会社じゃないのだから。




2014年12月15日月曜日

いつか走ろうと思ってるけど。。みたいな僕のような「サムデイランナー」の皆さん。日常に「走る」ことを取り入れないのはスゴくモッタイないことかもしれない。

今年もホノルルマラソンの季節がやって来た。




このブログをアップするころは、大抵のマジなランナーは既にゴールをしていて、達成感に包まれている頃だ。

ファンランナーも雨だったので、結構大変だったのではないだろうか。。


それでもホノルルの街を満喫しながら完走を目指した全ての人々は素晴らしい。

ランナーの半数くらいの日本人ランナーはハワイ在住の人を除くと、大抵は数日前から1週間前にワイキキ入りをする。


年末をハワイで過ごすセレブな人達よりも二週間前にハワイ入りする人達はどこかアスリートでポジティブなオーラを醸し出している。


今年9月末にワイキキを闊歩していた大勢の嵐ファンの女子達のポジティブな空気とも雰囲気が違う。(良い悪いじゃないです。)

ホノルルマラソン直前の金曜日に朝息子をプリスクールに送った帰りにもアラモアナビーチパーク周辺を馴らしランするテレビで見かけるような日本人著名人の姿を見かけた。

そういう街の雰囲気は、なんかアップリフティングでポジティブな空気に溢れていてとても好きな感じだ。

僕はと言えば、去年の今頃は日本にいて、連夜の忘年会にいそしんでいた。


鍋をつついたり、ラムチョップにかぶりつきながら、来年末はハワイで過ごすはずなので、いっちょやってみるか、みたいなことを考えていた。


今までマラソンなんてやることも見る事も(箱根駅伝とオリンピックですら)興味が無かったが、一年あれば準備出来るのではないか。

とか考えていたが、甘かった。


この歳になると一年などはあっという間に過ぎてしまう。


「走る」という今までの人生に無縁だった行為を習慣化するのは、並の精神では実現出来ない事がクリアに判明しただけだった。

しかしながら、僕の周りにはとても、本当にとてもランナーが多い。


シリアスなトライアスリートから、生活習慣をポジティブなものに変えたいから始めました、みたいなOLさんまで、みんな街を走っている。

朱に交われば赤くなる、という諺があるが、どうやら僕には当てはまらないらしい。
どうして皆あんな苦しい事を楽しんでやるのだろう、とか考える。

ただ、最近そんな僕にも分かって来たのだ。
走ることの意味を。

ある医者をやっている人が言っていた。
走っていると無になれる。

それって瞑想と同じじゃないだろうか?

良く有能な経営者は例外無く、「瞑想」をするとか聞く。


「瞑想」とは色んなしがらみとか、煩悩とか、雑念を取り去るような、精神のクレンジングだ。


僕も倣ってやってみたりするが、ほとんどブログで公表出来ないような「煩悩」しか浮かんでこなくて、悩ましい。


僕の周りの経営者の友人達から、「瞑想」の話は直接聞いた事は無いが、ほぼ皆ランナーだ。


もしかすると、彼らは走る事で、精神のクレンジングをして、今日の、そして明日への活力を得ているのではないだろうか。

そう考えて、ジムでのワークアウトの終わりに申し訳程度に、トレッドミルで走ってみる事にした。


距離ではなくて、走行時間を指針にしてみた。
もう4分も走ると、やめたくなる。

僕は自分に限り無く甘いので、初日はそれでも走った事に満足して、ジムを後にした。

次回から、1分とか2分とか増やして行く事だけを自分に課してみた。


5回目くらいから10分以上走る様になってきた。
超スローペースでもしかしたら早歩きの方が速いかも、というペースだが、取りあえず時間を延ばす事を意識してみた。

ジムでのワークアウトに走る事を取り入れてまだ数回なので、やっと15分連続で走るのが精一杯な感じだが、
ある違いを実感するようになった。

僕の場合はヘタレなので、5~6分で、もう歩きたくなるのだが、そこを我慢して10分以上走ってみると、
ジムを後にしたときの気分がいつもと違う事に気が付いた。

なんというか、「多幸感」みたいな感じを味わえる様になったのだ。


物事を前向きに感じられると言うか、巧く表現出来ないのですが、頭に浮いて来るアイデアみたいなものがポジティブな感じになってきたのだ。

早速、Googleで走ることの効用みたいなものを調べてみたら、いくつも出て来た。


その中でも、ダイエットとかそういう分かりやすい効果以外にも魅力的な効能があることがわかった。

まとめると「人は心拍数をあげると、前向きな気持ちになれる」というような内容だった。

これは発見だった。

人間にはバイオリズムとか、感情の波とかがあるので、どうしても日によってネガティブな気持ちになってしまうことがある。

そういう時は、フィジカルな刺激を身体に与えるといい、というのは経験的に知っていた。

ただ、ジムに行って重いウェイトを上げるとかいうのは、そもそもモチベーションが低い状態なので、結構無理だ。


なので、スパが充実しているようなジムで熱い風呂に浸かったり、サウナと水風呂の往復を10回くらいする。

そうすることでネガティブな気持ちを吹き飛ばす様にしていたのだ。

熱い風呂に入ると心拍数が上がるので、意識せずに前向きな気持ちになれていたという事だったのだろう。


「じゃぁ、走るのはつらいので、熱い風呂に入ることにしよう」、という事でも無い気もする。


と言うのは、風呂に浸かるのに精神的な葛藤はないからだ。

走る時というのは、どうしても「何の為にオレは走っているのよ?」とか、「ここで歩いちゃおうか!」とかそういう葛藤が生じる。


特に僕のような、自分に甘い人間はそういう葛藤で頭がいっぱいになる。

そういう葛藤を乗り越えたぞ!


という達成感も「多幸感」を与えてくれる一部要素になっているかもしれないからだ。

たかだか、15分やそこらなので、友人のランナー達には苦笑されるかもしれないけど。

来年、ホノルルマラソンを走っている、かどうかは分からない。

少なくとも「走る」ということは、生活の中に取り入れようと思う。

自分のペースで、なら出来るかも知れないから。

ちなみに、瞑想の達人になるとセロトニンというホルモンが活性化するらしい。
そして、ランニングでも同様のホルモンの活性化が期待出来るのだ。



2014年12月9日火曜日

12月7日はパールハーバーアタックの日でした。その日に僕がハワイで感じた事。

昨日の日曜日は12月7日の日曜日。

同じ日、同じ日曜日の午前7時48分に旧日本海軍は真珠湾への攻撃を開始した。
太平洋を挟んだ日本と米国の戦争の始まりだった。

ハワイに住む日本人としてこのことを考えずにはいられない。

とかナントカ言いながら、ブログへのポストがオンタイムじゃない。。。


そう昨日は日曜だったので、稲葉というおそば屋さんで美味しい蕎麦と天丼のランチコンボなどを食べて、
午後はホームデポでクリスマスツリーを買い、

隣接するコスコで食材をショッピングし、
夜はビールとコスコで買ったピザを楽しんでしまったのです。

そういうあまりに戦争とは対極な平和過ぎる一日を過ごしてしまったので、夜ベッドに入るまで、今日が真珠湾攻撃の日だと忘れていたのでした。

歴史は年月と共に風化してしまう。
僕みたいな人間はベーシックな所で愚かな所があるので、歴史に学ぶ、ということをしっかり意識しなくてはならない。そうでないと、うっかり同じ間違いを犯してしまう。


ヒルトンビレッジ内に掲げられたノボリ

このノボリの写真は、あのアタックにより沈められた戦艦アリゾナ、そして真珠湾で従事していた軍人、民間人の生き残りの人及び遺族の方達が式典の為ハワイを訪れるのを歓迎するものだ。

73年前という年月が経ってしまっても、あの日以来連続する日々を今も生きている人が多くいるのも事実だ。


僕らは、その事実を知らなくてはならないし、きっと今日はそういうことを考える日だ。

日本人がかつて攻撃を加えたハワイで、その73年後にその場所で能天気に日本人の僕が日本蕎麦を食べているという矛盾に満ちた行為をかつて戦争で闘った二つの国のおじいさん達はどう考えるのだろうか。

そしてどういう意味があるのだろう?

ハワイの主な産業は、観光と軍需だ。

だから、海外から訪れる最大の観光客なのは日本人で最大に歓迎される一方で、今でもハワイが米国の重要な軍事拠点であり、今でもパールハーバーが米軍の必要性を肯定する上で最大の装置になっている矛盾みたいなものもしっかり認識して置くべきだろうと考える。

今ある平和(と日本人が思っている)も、歴史の連続の上に成り立っているということを考えなきゃならないし、世の中はありとあらゆる矛盾を包括して成り立っているという事も、理解して、続く世代の自分の
子供にも伝えて行かないといけないと思うからです。

余談ですが、僕はかつての旧日本軍や日本帝国政府のことを今多くの日本人が考えている様に、底抜けに無能で無謀でアホなだけだったとは考えていません。

血で血を洗うような欧米列強が破竹の勢いで、アジア諸国、特に大清国として鳴らした隣りの大国をグチャグチャにしているのを見て、相当の危機感を持って開国し、特権階級であった武士層が革命ならぬ「維新」(上層階級が革命にしても維新にしても、そういうことを行うのは世界史に例がない)を敢行し、近代国家を作った。


(ちなみに偶然ですが、明治元年から73年後が太平洋戦争開戦だ。)
そういう人達の遺志を継いで来た人達が、全て底抜けな無能で無謀だったと言うのは、これまた矛盾がある。


アジアで最初に近代化した、という事実に関してはもっと日本人は誇りに感じても良いのではないだろうか、とも思う。

歴史は幾多に及ぶ同時併行な線と面の両方見なければ全体像が見えないので、太平洋戦争だけを見ても、日本の評価は出来ないだろう、と考えているからです


せめて、明治維新から第二次大戦後までを一つの流れとしてみる必要があると思う。

そうじゃないと、歴史から学ぶ、という作業は困難になってしまい、思想的に偏ることも起こりえるだろう。

世界史的に見れば、20世紀初頭の「近代化」とは「戦争」という行為と不可分だった。


日本だけが、戦争好きだった訳ではない。

(と言って、決して戦争を肯定してはならないとも考えます。)

とは言え、かなりの部分で戦局の読み違えがあったのだろうし、時のリーダー達がずっこけるようなあり得ない判断をした、もしくは正しい決断をしなかったというのも事実だろうけれど。
多くの命が無駄に失われたのも事実だろう。

その結果、近代化の終止符として、日本は原爆と言う人類史上最大に非道である大量殺戮兵器を二発も、それも民間人が多く住むエリアに落とされて、敗戦を迎えた。

アメリカは全ての事象を線と面で捉える戦略的視点を重要視し、

日本には点でモノを見る戦術的視点しかなく戦略が無かった。

近代化の為には、欧米列強を模範にすれば良かった。
しかし、いざその列強と一戦を交える局面に来た時、日本は模範にすべきものを間違った意味で武士道に求めてしまった。


武士道はモラルであり、戦術的であり、利益を最大化する為にはどう行動すべきか、という戦略を示すものではない。

この差が、日本を米国との開戦に踏み切らせ、そしてまんまと日本は一度オワコンな国になってしまったのだ。
(その後の、日本の復活にも思う所があるけれど、長いので止めておこう。。)

そして、今も日本という国家には「戦略的視点」があまり重要視されていない様に思える。

ハワイだけではなくてアメリカにいると、どうやって人々の生活が成り立っているんだろうと首を傾げるような日本と比較した時の「ユルさ」を目の当たりにするが、ベーシックな部分で大局からモノを見て行動するというメンタルを感じて感銘を受ける事が多い。


細かいことは気にしない。
それよりも、本筋を見失わずに、得るべき利益をゲットする為に行動を起こし、修正して行く、みたいな柔軟性と戦略視点です。

ハワイと言う楽園で暮らしながら、12月8日(現地時間7日)を迎えると言うのは、日本人の僕にとってなんだか色々考える良い機会となった(一日遅れたけど)。


そして、双方の国家の為に命を落とした全ての人達の為にお祈りと感謝の気持ちを捧げたい。


2014年12月7日日曜日

アンチエージングな朝食。僕のここ数年の定番編。

正直、日本の定番な朝食は世界で一番美味しいと思う。

自分が日本人だから当然かもしれないが、あるアメリカ人の友人も旅館で食べた和定食が忘れられないと言っていた。

僕の頭の中にある定番朝食とは、白い炊きたてのご飯に、大根とかさっぱりした野菜の味噌汁、そしてアジの開きとキュウリのお新香だ。納豆があれば完璧だ。


とか書いているくせに、郷に入っては郷に従えで、アメリカにおける定番朝メシ「オートミール」について書こうと思う。

僕自身は、結構好きで生のオートミールにミルクをかけて食べてるのですが。
日本でほぼ食べる人を見た事も聞いた事も無い。


それでも日本の普通のスーパーで普通に売っているオートミール。
一体誰が買っているのか不思議なのですが、もしかするとクッキーなどを自作する素敵な主婦とかが買っているのかもしれない。


アメリカでは、ヘルシーで朝からフレッシュジュースなどを提供しているようなカフェなどでは必ずメニューにあるのがオートミールなのですが、ここハワイではアサイーボウルに完全に押されて人気は低迷チックになっているのが残念だ。


アサイーボウルは美味い。でも、結構な糖分だ。
そうだ、オートミール 食べよう。

あるブログサイトでオートミールが持ってる医者いらずなハンパ無い効用、みたいな記事があったので、是非紹介したいと思います。

多分、トピックがオートミールというこれまたハンパ無くマイナーなので、どんな日本語バズサイトでもバズるはずがないので取り上げることはほとんど無いと思う。

僕と同世代な日本のヘルシー志向の中年コヤジ&女子にとっても有益な情報だと思う。


この記事では、僕が最も凄いオートミールの効能だと思う部分が抜けているので、最後に付け加えようと思う。

オートミールが持つハンパ無い9つの効用(要約バージョン)

本文へのLINKはコチラ。

1. 悪玉コレステロールをやっつける。
1カップ半のオートミールには5gの食物繊維が含まれており、悪玉コレステロールの値を下げる働きをしてくれる。

2. 高血圧のリスクを軽減してくれる。
心臓血管系の健康維持に貢献してくれる。
特に閉経後の女性は高血圧に悩まされるケースが多いが、週に6回オートミールを食べると良い。

3. 素晴らしい抗酸化効果
オーツ麦に含まれる
アベナンスラミドよばれる抗酸化物質が善玉コレステロールを守る働きをしてくれる。

4. 動脈硬化を防ぐ
このアベナンスラミドという抗酸化物質は心臓病を防ぐだけではなく、動脈硬化も防ぐ。

5. 血糖値を安定させる
高繊維の食事を朝摂る事で、朝っぱらから砂糖とか炭水化物を摂ってしまった場合の反動で来るダルさを避ける事が出来る。


6.糖尿病の発症を防ぐ
オートミールに含まれるマグネシウムがインスリンとグルコースの値を安定させることで、糖尿病になりづらくする。

7.免疫力を向上させる
キノコ類なんかにも含まれるβグルカンは免疫力を高め、細菌やウィルスに対する抵抗力を高める効果がある。

8.体重増加を防ぐ
食物繊維が多く含まれている為腹持ちが良く、満腹感を得やすい。

9.グルテンフリーダイエットの代替になる

セリアック病など自己免疫疾患の人はグルテンの摂取を制限されるが、オートミールは少々のグルテンは含まれるものの、摂取しても問題ないとされている。(←ここは主治医に確認すべきだろうが)

最後にこの記事が薦めているのは、砂糖などでコーティングされたものでは無くて、プレーンのノーマルな製品。

それを、リンゴなどのフルーツや精製されていないブラウンシュガーと合わせれば程よい甘みもプラスされると書いている。

内容は以上だ

僕がこれに付け加えたいのは、オートミールには、テストステロン、すなわち男性ホルモンをブーストする効果があると考えられている事だ。

このホルモンは、若さを保ったり、筋肉をつけたり、もちろん「アッチの方」への効用も期待出来る。

僕の場合は、生のオートミールにその時にキッチンにあるフルーツを入れていて大概がリンゴ、バナナ、パイナップル、もしくはドライフルーツ、そしてナッツだ。
そこにミルクをかけている。(最近はアーモンドミルクもたまに登場する)

朝簡単に一日のブースターとなってくれるので、僕のお気に入りの朝食です。
ちなみに、家族は「マズ!」とか言って決して食べないので、やはり万人向けではないのか。。

いや、美味しいですよ、ホントに!











2014年12月4日木曜日

あなたも僕もきっと人生の勝者になれる。今この瞬間に毎日の習慣が持つ偉大なパワーに気付きさえすれば。

ハワイのエンドレスサマーな光と風に包まれる。
ビーチライフと好きな時にビールとワインを飲むみたいなロンバケはこれ以上無く能天気で、それはそれは楽しい経験だった。

一方で、人生への重要な様々な気付きを与えてくれたのも僕にとってのロンバケだった。



夕暮れのビーチサイドを歩けば、いやでも人生について思索してしまうのだ。

その中でも、素晴らしい気づきをもたらしてくれたのは、新たな人々との出逢いだった。

きっと自分の中の「モノの見方」が変わってしまったので、人々との出会いに新たな価値を感じることが出来たのだろう。。

そういう人達は、大抵なんらかのプロフェッションを持っていて、自分の足でしっかり人生を生きている人達だった。

起業家もいれば、作家、旅人、事業主、企業に属していてもフリーエージェントのように自分の価値の対価として報酬を得ている人などで職業を特定することは出来ない。


もちろん、ジェンダーも年齢も関係がない。


ハワイに永住している人もいるし、ベースは日本とか、世界中を旅しているなど、ライフスタイルも様々だ。


彼らを資産とか地位など持っているもので「成功者」とか定義する事にはあまり興味が無い。

僕が感銘を受けたのは、まさに「経済的にも精神的にも自由を獲得し自分の人生を生きている」というオーラが全身から出まくっていることに対してだ。

ついでに、人間としての魅力も存分にある。

僕は彼らを「人生の勝者」と呼びたい。

そして、僕もその仲間に入りたいと願っている。

彼らはどのようにして今のポジションを得る事が出来たのだろうか?
どうやって優れた仕事と人生と人格を手に入れたのだろうか?

毎晩寝る前に瞑想をして、よくある「成功法」のようにイメージングをしたり、「引き寄せの法則」とかを一心に信じた人達だったのだろうか?

中にはそう言う人も居るだろう。

ただ、きっとそれだけではない。
(僕個人としては、イメージするだけで、願いが叶う式の成功法には懐疑的だ。)

東京に戻っていた時に、10年以上も会っていなかった前職の先輩と少しの時間だけキャッチアップする機会があった。

本人曰く、かつての彼は毎晩飲み歩き、相当の量を飲むような重度のアル中だったらしい。
新橋に行けば、360度どこを見ても発見出来るような普通のオジさん。

そんな彼は、ある時決断した。


そして、一切のアルコール断ちを敢行し(もう7年以上も続いている)、毎日ブログ(1,000本を越えるポスト)を書き、そして本を何冊も出版して、ビジネス的に面白そうだと思うと、世界の何処へでも即断で駆けつけるような別人にトランスフォームしていた。


その彼が僕に話してくれたストーリーの中で、最もインスピレーションを受けたのは「自分を変えることが出来たのは、習慣を変えたからだ」というシンプルな言葉だった。

これは驚くべき事だった。

大変失礼だが、僕の知っているその先輩はサラリーマンとしての会社の仕事とお酒とソウルミュージックをこの上なく愛する、普通の愛すべきオジさんだった。


今、目の前にいる先輩はただのオジさんではなくてトランスフォーマーなスーパーヒーローだった。

本人は謙遜していて、まだまだ全然さ、というようなことをおっしゃっていたが、僕には眩しく見えた。


彼は、とにかく毎日の習慣を悪いものから良いものに変えるのだ、と言っていた。
そして、これは良いと思えるものがあったら、とにかく習慣化するのだと言っていた。

そしてそれは徹底していた。

先輩の名前は徳本昌大氏。iPhoneアプリを使った習慣改善法の本を最近リリース。

その後、ありとあらゆる本を読んだり、人と会って話を聞いたりしたのだが、人生の達人が素晴らしい作品や仕事を世に出したり、自分の人生をしっかり確立してぶれず、かつ人への好影響を与えてることが出来るのは「毎日の生活の中に、当たり前のように良い習慣を組み込む」という事を当たり前にこなしているからだった。

今読んでいる、
The 101 Habits of Highly Successful Screenwriters: Insider Secrets from Hollywood's Top Writers
という本はハリウッドで成功ししているクリエイター(スクリプトライター)が優れた作品を創作する上でどういうHabit、すなわち「習慣」を持っているかという話に特化した内容だが、メチャクチャに面白い。

一流と言われる脚本家達が使っているメソッドは様々だが、共通している事が一つだけあるようだ。


それは、「毎日書き続ける事」。

すなわち、「習慣化」だ。
一流になる為には、四の五の言わずに、毎日やるべきことを習慣に組み入れ生活するだけなのだ。
ハリウッドのクリエイターは常にインスピレーションを与えてくれる。
これは、全ての道の成功者や勝者に共通の事なのだとも気が付いた。
自分が正しいと思う事を、思うだけではなく行動する事。
それも思いついた時、時間がある時に、ではダメなのだ。

毎日、習慣化しなくてはならない。


朝起きて、トイレに駆け込む様に。
ズボンをはくときに必ず右足から穿く様に。
毎朝オフィスについたらMacの起動ボタンを押す様に。

そのように正しい行動を習慣化するのだ。


Over night success(一夜にして成功する) というのは、稀にはあるのかもしれない。


だが、本当の人生の勝者というのは、毎日の習慣のパワーに気付いた人達なんだ、と僕は取りあえず結論づける事にした。


僕は既に45歳で、昔からの行動パターンというか悪癖にまみれた感じで生きて来た。
どれだけ、ネガティブな習慣を改善する事が難しいかは知る過ぎる程知っている。

それでも、良い習慣を毎日の生活に組み入れて行く事をしなければ、先に挙げた友人達や先輩のように「なりたい自分。本来あるべき自分」へとトランスフォームしていくことは不可能なのだと思う。

2014年11月30日日曜日

大事な部分を維持する為に、変化する勇気を持てば、サバイブ出来るはず。

最近80年代後半のポップミュージックを聞いていて、
80年代の自由さ、斬新さにとてもインスパイアされたの。
2年って色々変わるわよね。

髪形だったり、スタイルだったり…で、
この2年間で自分自身の音楽も変わったと思うわ。
新作は、初の公式ポップ・アルバムよ

テイラー・スウィフト(CDジャーナル


ラジオから高校生のチアリーダーが好んで使いそうな曲が
ガンガンにローテーションされていて、

ウチの息子はプリスクールの送り迎えの車内で
この曲がかかるとサビの' shake it all"とか口ずさみながら
ノリノリになっています。

日本のポップス業界がある特定のガールズグループとかボーイズグループに占領されている現状と比較して、
アメリカのポップス業界は今でも元気で、多様で、
若い才能がどんどんプロデュースされて出てきている。

なので、この曲を歌っているのもきっと大型新人なのかもしれないとか、したり顔で考えていたら、
DJがテイラー・スウィフトだと紹介したので少し驚いた。

僕に取って彼女は日本でも人気があるとは言え、
カントリーカテゴリーの歌姫だと思っていたから、
この100%ポップな感じが彼女とは信じられなかったのだ。



iTunesでも世界的にDL一位になったりと、相変わらずの人気だし、楽曲もポジティブでまさに80sチックな感じなので、メチャクチャ気に入ってしまった。


オレが20歳若かったら、理想の彼女像はテイラーだ、とか言っていたに違いない、とかアホなことを思いつつ、
今日書きたかった事は、別に彼女の新曲
(ってか、リリース8月だし、今もう師走だし)
の紹介ではもちろんない。

僕がピチピチのテイラー・スウィフトの曲を聞きながら思い出したのは
有名な「春木屋理論」です。

そう、あの有名な荻窪のラーメン屋さん。

「(昔から)変わらぬ旨さ」と言われる為には、
どんどん良くなって来ている食事情や
お客様の「舌」に応えるべく「変わり続けなければならない」
という、あの理論です。

最初にこの話を聞いた時にダーウィンの進化論
強い物が残るのではない、変化を受け入れるものが生き残るのだ」
を聞いた時より衝撃を受けたのですが、
大好きだったソニーの凋落の原因もそこにあるのかもしれないと考えた。

テイラー・スウィフトは、あっけらかんと、
いとも簡単に「変化」を堂々と宣言していた。

カントリーソングのメッカであるナッシュビルに住む彼女は、
カントリー歌手としての成功を維持しようとは考えなかった。

ただ、表現者として、自分の内なる変化を自然に受け止めていた。

「サバイブする為には、変わり続ける事」
という、「春木屋理論」は、別にラーメンとテイラー・スウィフトだけに限ったことではないのは当然だ。

ありとあらゆるブランドや人間にもあってはまる原則だ。

昔も今も変わらずに光り輝いている人というのは、
変化を受け入れるのみならず、
変化を是として意識的に昨日より、今日、そして明日と
変わり続ける事を座右の銘にしているのかも知れない

もしかすると、日本人と言うのは、必要以上に「変わらない」ということに無意識に価値を置いていて、そのせいで自滅する、というケースがあるのじゃないかとか思ってしまう。

例えば、偉大なるマンネリとも言える「男はつらいよ」の寅さんも、渥美清というこれまた偉大なる俳優が「寅さん」を引退して終わってしまった。

コアのアイデアは変わらずに、俳優が変わりながら新作ごとに変化をしてトレンドに併せてパワーアップしている「007シリーズ」とは全然違う。

惜しまれつつ(かどうかは置いておいて)終わってしまった「笑っていいとも」だって、マンネリが飽きられての終了だったと思っている。

同じ様に、コメディアンが司会を務めるアメリカのバラエイティ「トゥナイトショー」は、これもコアアイデアは変わらずに、司会者をチェンジして、時代と共に変化をさせながら50年も存続しているお化け番組だ。

アメリカの音楽業界はCDから、ダウンロードへと完全にそのあり方や姿を変えてしまったが、日本のように「音楽不況」という嘆きはあまり聞こえてこない。

つまり、環境に併せて「変化」をする、というのは「コア」となる部分を存続させる為には「必須」であるということがわかる。

僕はトム・クルーズのファンだが、いつまでも万年青年みたいなイケメン役しか演じていないのは相当無理が来ると思っている。

ポール・ニューマンの若い頃は水の滴るようなイケメン俳優だったが、どんどん変化に併せて老獪で重厚な俳優として人生を全うした。

変化は必須なのだ。

僕は、決して保守的ではないが革新的な男でもない。

まさにレギュラーガイというかビールとピザと寿司とTシャツで過ごすことが
大好きないたってノーマルな男なのだが、
サラリーマンを辞め、ハワイでロンバケし、
フリーで生きて行く覚悟を決めた時から、
「変化する事」を意識するようになった。

だから5年後の自分を今想像することは出来ない。

自分が変化をする、ということを意識的に行うということは、
前回書いたような「主体性」を持たなくては成立しないことのように思う。

黒髪を金髪にするとか、そういうぶっ飛ぶような変化でなくても良い。

むしろ、人が気がつかないような
小さなイノベーションを毎日重ねる事を続ければ、
きっと生き残りは可能だし、
もっと遠くへいけるかもしれない。

2014年11月26日水曜日

自分のボスになる編。サラリーマン強制終了からのロングバケーション考。

なんだかんだでロングバケーションが始まった。

香港での食い倒れをとっかかりに、シンガポールのマリーナベイサンズに一週間ステイ。
その後、かつて訪れてもう一度行きたかったクロアチアのドゥブロブニクの風光明媚な景色の中で魚料理を堪能した後は、南仏プロバンスに一ヶ月滞在する。

という計画は3歳の息子も交えた家族会議で却下になり、それは次回のロンバケにしようと言う事になった。

実際には、羽田からの直行便で、ホノルルに向かったのでした。

年に数回あった海外出張のおかげで貯まったマイレージを使い、家族三人をビジネスクラスにアップグレードして行った今までのハワイ旅行とは違い、ここは堅実にエコノミークラスでの渡航だった。

観光ビザで過ごせる期間一杯までハワイに滞在する予定だったが、決めていたのは約一ヶ月間のステイ先であるコンドミニアムだけ。

その他は全て行き当たりばったりというスーパーノープランなバケーションだった。

きっと、はたからみたら株や宝くじにでも当たった能天気なファミリーに見えたかもしれないが、実際は一寸先は闇、を地で行くようなアドベンチャーファミリーだったのだ。

それでも、行動した先には何か「サイン」のような物が見えて来るかもしれない。

エンドレスサマーで人を優しく包み込むような潮風が当たり前に吹いているような環境では、どんな状況でもきっと明日は明るいと根拠無しに思える所も素晴らしかった。
カハラ。なんと優しい風景。

息子はまだ3歳だったので、義務教育のタイミングでは無かったが、プリスクールは一番早くに決めた。

1歳からバイリンガルのプリスクールに通っていた息子なので、場所が変わっても「親と離れて集団で他の子供と過ごしつつ、しかも英語な環境」だけは継続させたかったからだ。
君は将来、オヤジの決断をどう評価するんだろうか。。

ネットを駆使し、クレジットヒストリーも無い状態で、怪しい情報にも翻弄されながら、数打ちゃ当たる戦法で部屋のレント情報にアタックをした。

結果、幸いにも気持ちのいいアパート(コンド)の大家さん夫婦(プチリタイヤ中の米国人)に出会う事が出来た。
彼らへのプレゼンをきっちりこなし倍率の高かった部屋にも入居が出来た。

その間に、ハワイに旅行で来る友人達と食事をしたり、新しい友人との出会いがあったり、波乗りにチャレンジしたり、そうやって、楽園での日々が過ぎて行った。

特に毎日何をする訳ではないが、朝、日の出と共に目覚め(嘘。日の出の2時間後くらい)、子供を送り、自宅でランチを作り、昼間からワインを飲み、眠くなれば潮風を感じながら昼寝をする。

みたいなストレスフリーな生活は、自分達の等身大なバケーションの形として満足出来るものであった。

所が、いつになっても僕が期待した
「人生が変わるようなドラマチックなインスピレーション」
と言うものに出会うことが無かった。

Oops! photo by Jasmeet @ Flickr http://goo.gl/nUSUHn

そればかりか、食っては飲み、そして昼寝するという生活を2,3週間続けせいで、お腹周りがぽっこりしてきてしまったのだ。

一方で、銀行の預金口座の残高ばかりはドラマチックに減って行ったのだ。

僕はそこで立ち止まって考えざるを得なかった。

これでは、自分が否定した「老後リタイアしたオッサン!」みたいなハワイライフじゃないか!

いやいや、違う、違う。

このバケーションは、今後の自分の人生へのインスピレーションを最大にする為に起こしたアクションではなかったのか?

そして悟った。

この休暇中、僕に決定的に欠けていたのは明らかに
「主体性」
だったのだ。

ハワイは、何と言うか、母性に満ちあふれているような土地だ。

観光客もローカルもメインランドからやってくるホームレスも、全ての人を優しく包んでしまう。

(それぞれ過酷な現実を抱えている人もいるだろうけど、実際に本土のミシガンとかウィスコンシンとか、コロラドとかイリノイみたいな冬が強烈な所とは全然違う。アラスカなんか想像もつかない。)

なので、うっかりとその居心地の良さにフワフワしてしまう。

そういう優しい母性から乳離れをする為には、主体性というか、英語で言うIndependence spirit を持たなくてはならないことに改めて気が付いた。

ハワイでバケーションを過ごしながらそういうことを考えている人間が他にいるのか分からなかったが、僕のような自分に甘い人間の代表選手みたいなヤツは、クリアに意識をしなくてはダメなんだと気が付いた。

結局、ロンバケといっても無為に過ごすのであれば、それは単にボ〜っとした日曜日が連続するだけなんだと、当たり前の事を実感することになった。

そこには会社のメンドクサイ人間関係もない。
金曜の夜に電話をかけて来て月曜の朝までに資料が欲しいというようなクライアントもいない。

いるのは、ただ自分だけだ。

自分と向き合う事から逃げずに、真の自分に気が付かなければ、何もロンバケはもたらしてくれる事は無い。

それには主体性を意識的に持たなくてはならない。

もっと言えば、「自分が自分のボスになる」、ということの意味を理解する、という意味だ。

20年間サラリーマンだった僕は、骨の髄までサラリーマンになっていて、真の意味で「主体性」を持って「行動する」という行為に慣れていなかったことに気が付き愕然としたのだった。

今までは、会社の目指す方向だったり、ボスの指示に文句を垂れながら従うメンタリティでも生きて行く事が出来た。
なので、いざ有給休暇となるとその開放感に浸るだけで十分だった。

しかし、渡って来た橋を燃やす覚悟みたいなノリのロンバケでは、主体性を持つ事が何よりも重要だという事にやっと気付いたのだった。

そういう発見の中で、以下のような最低限のしばりを自分に課す事に決めた。

○流されるにしても主体性を持って流されること。
○家族の絆を感じまくる事。(これだけ長時間フィジカルに一緒に行動したことがあっただろうか?)
○目の前に起こっている事を見極めて、ひとつずつ考えながら行動すること。(日常のささいなことを見逃してはならない。何かのサインかも!)
○感じた事を簡単にメモに取っておく事。(毎日)
○食った食事をフレンチからスパムおむすびまでログって置く事。(毎日)

メシまで?!とか思うけれど、実は食事を選ぶという行為は主体性を持つトレーニングの上位に来る概念だと僕は思っています。



長文にお付き合いいただき感謝です!