Koy's blog

Koy's blog

2015年12月17日木曜日

ロッキー、最後の物語が教えてくれた事。ネタバレ全くなし!


「ある偉大なボクサーがこう言った。 『大事なのはパンチの強さじゃない。 どんなに打たれても――前に進み続けることだ』アドニス:クリードより」


先日ロサンジェルスで行われた「スターウォーズ:フォースの覚醒」のプレミアム。

LA在住の友人が参加したらしい。
心底マジに羨ましい。。。。


僕は息子がモノ心ついた2歳くらいからスターウォーズのDVDをがっつり見せて英才教育をしてきた。


息子はピカチュウとか妖怪ウォッチよりも先にR2D2のファンになったのだ。




ディズニーがルーカスフィルムを買収して、「続編を作る」とほとんど奇跡な宣言して以来、息子とスターウォーズの新作を観に行くのが僕の夢となった。

その夢がまさに叶おうとしているのだ。
興奮して仕事など手に付くはずが無い。

そして、日本でも今週末の公開を前にしてファン達の興奮は沸点に達しようとしている。

やばすぎる。



しかし、ちょっと待って欲しい。



あなたが映画ファンなら、もう一つ忘れてはいけない「続編」がある。

奇しくもスターウォーズと同じ7作目。

最初の公開も1976年。
1年差でほとんど同じだ。

しかも、こちらの1作目はアカデミー賞の作品賞を穫っている、正真正銘の名作だ。



そう「クリード:チャンプを継ぐ男」だ。



公式HPはこちらっす。


「ロッキー」の敵役、そして後に親友となった男アポロのラストネームが「クリード」だ。

僕はロッキーファンを自称してるくせに、アポロのラストネームまでは知らなかった。


ロッキーのバルボアなら知っていたのに。




I know!


CM監督をしている友人に誘われ、
ワーナーブラザースの試写室でロッキーの最新作「クリード」を男二人仲良く堪能して来たのだ。

このブログではネタバレはしません。

ストーリーについては触れないので、観に行く予定の人は安心して欲しい。

ただ、「アポロが死んだ後に彼の愛人が産んでいた息子がロッキーと共にチャンプを目指す話」、とだけ書いておく。


所々にロッキーリスペクトなシーンがあって、往年のファンはジーンとするだろう。


シルベスター・スタローンもイタリアの種馬の見る影も無く、一人寂しく老後を送るロッキーを見事に演じていた。


とは言え若いファンの人にとっても、この作品だけでも物語に感情移入できる構成になっているのが、脚本の上手さだ。

この物語は、アポロの息子であるアドニスが自身の葛藤を乗り越え、そしてある「何か」を掴む、という映画なのだが、僕の興味は違う所に反応していた。



それは「そういや、みんな死んでるじゃんか」ということだった。



ロッキーというのはボクシングをモチーフにした「再生」の物語だ。

全てのエピソードに共通しているのは、「今の自分自身に問題があって、それを突破する為に過酷なトレーニングを自らに課す。そして、その苦しみを乗り越えることで自分自身をも乗り越え再生する」という物語だ。

簡単に言えば、


「今のままでは生きてても死んでるのと同じだ!現状を打破する為に、自ら行動し、そして試練を乗り越えれば、必ず生きているという実感を取り戻す事が出来るのだ!」

という今では神話になってしまったようなアメリカンドリームを追体験出来るというお話だ。

実際、アポロの息子である「アドニス君」はロッキーと出逢い、過酷なトレーニングをこなすことで、葛藤を乗り越え、本来の自分を取り戻して行く。

しかし、僕は「往年」のロッキーファンなので、どうしても若いアドニスよりも老人のロッキーの方に感情移入してしまう。

そうすると、映画をみる視点が変わってしまうのだ。

僕は、あるシーンで思わず泣きそうになった。


ロッキーが愛する妻であるエイドリアンの墓、そしてその横で眠る親友のポーリーの墓の前で一人老眼鏡で新聞を読み、日常の些細な出来事を語りかけるシーンがある。

そう、
ロッキーの周りで、ロッキーの活躍を心から応援していた人々は全て死んでしまっているのだ。

トレーナーだったミッキーも、宿敵&親友なアポロも今はいない。

ロッキーは独りぼっちになってしまっている。

もう、誰もこの世にいないのだ。


「再生」したらゾンビ映画になってしまう。

そこに現れたアポロの息子は、確かにロッキーの希望となる。


しかし、この物語で「再生」するのは既に「ロッキー」自身ではない。

チラシに書いてあるしネタバレではないので書く。


ロッキー自身も死に至る「病い」に冒されているのだ。

ロッキーは劇中で自身の病いとも闘う決意をするのだが、永遠の命を得る事などあり得ないことは明らかだ。

妻と親友の墓前で語るシーンはその象徴だ。
ロッキーもいずれ、その横で墓標に刻まれる存在だと言うことなのだ。

なんてこった。

僕にとって「再生」という希望のドラマを見せてくれるはずの「ロッキー」は近い将来消えて行く存在として描かれているのだ。


もうロッキーは「復活」はしないのだ。

ワーナーブラザースの試写室の堅い椅子で僕は固まってしまった。

小学生の頃に初めて観たエキサイティングな「ロッキー」とはまったく異なる「読後感」を今40代になって味わっている事にショックを受けたのだ。

映画としては今回で7作目だ。

ということは、ロッキーは都合上「7回」の再生を果たした事になる。


そうやって、シルベスター・スタローンは観客である僕らに7回も「希望」を感じさせてくれた。

今回できっと最後になるギリギリの「希望」だ。

どう考えても「死の病いに冒された」ロッキーがボクサーとして「再生」する物語を観る事は無い。


「クリード」としての続編があるかどうかは分からない。



しかし、今回のストーリーがロッキー・バルボアの最後の物語であることは間違いが無い。

試写の後、CM監督の友人との昼間の新橋で酒を飲んで、ひとしきり映画談義を楽しんだ。


そして、僕は自宅にトボトボと帰りながら、「ロッキーありがとう」とつぶやいた。

今回、大きな予算をかけられて、長編二作目にも関わらず大作映画を託された若手監督が描いたハリウッド
映画が僕に教えてくれたのは、「永遠に続く人生などない」、という事実だ。


ロッキーはその「人生」で7度再生した。

その都度、「強さとはパンチの強さではない。打たれても前に進み続ける事だ」と教えてくれたのだ。

そして、俺はどうなのだ?

俺は、何があろうとも前に進もうとしているか?

自身の再生の為に、何が問題で、試練で、そいつらを乗り越えようとチャレンジしているか?


ここ最近寒い日が続いていたので、怠けていた朝のランニングを再開した。


もちろん、iPhoneのヘッドフォンからはサバイバーのアイ・オブ・ザ・タイガーがリピート再生だ


そうだ。

走り続けよう。
自らに試練を課す事に臆病になるな。
試練は人が与えてくれるのではない、自ら課すのだ。
自分の弱さから目を背けるのはヤメよう。

生きてる実感は、現状の葛藤から目を背けず、チャレンジしたものだけが得る歓びなのだ。


人生というリングで闘い続ける為に、自分への挑戦を止めてはいけない。


人生は1回だけなのだ。