Koy's blog

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2015年5月28日木曜日

真に自由人になる為に。流派とか派閥的な概念を吹っ飛ばそう!

君はどっち派?


今日、広告業界の尊敬する先輩がフェイスブックに面白いポストを上げていた。

今,広告業界にはブランド派とダイレクト派の二大流派が存在している、というような内容だった。

それはきっと事実だ。

ブランド派というのは、主にCMなどに代表される動画コンテンツやストーリーで長期に顧客との関係性を創造するもの。


ダイレクト派というのは、古くはダイレクトメール、ちらし、今はネットを中心に、潜在顧客の購買行動に直結するようなアクションをシンプルに促すもの。

「ダイレクト派」は物が売れない時代にあって悠長に「ブランディング」をやっているうような、クリエイティブを否定する論調もあるように思う。

一方で、「ブランド派」は、情緒のかけらもないような、「これにお困りなら是非クリック!」みたいな、取りあえずナンパしてデート出来そうな女の子の電話番号をなるべく数多くゲットするような(リストの獲得)みたいなノリに一種の違和感(古い人になると嫌悪感すら!)を覚えている。


要は、どっちも相容れず、ポーカーフェイスで互いをディスってるのが今の広告業界だ、みたいな感じなんだろう。


僕は、そのポストに対して、


そもそも、目的、戦略によって手段が異なるだけ。

両派があったとして、双方がディスり合うのは、双方とも広告を分かってない。
広告は手段であって思想ではない。
双方使い分けるのが賢いクライアント。」

というような偉そうなコメントを残したのだ。

要するに、広告を手段とする誰か(主に広告主)が主体性を持って、自社のサービスや製品のプロモーションを図っていく、というサバイバルな状況では、どっち派みたいな議論は意味をなさないと思ったからだ。




そういう事を、考えていて、この議論は何かに似てるとずっと感じていた。


それが、仕事が終わって自宅でゆっくりワインを飲んでいたら「ああ、これか」と気付いたのだ。


それは、「会社員」で行くか「起業(自営・フリーランス)」で行くか、二者選択みたいな議論に似ていると思ったのだ。

会社員 vs. 起業家・自由業連合といった対立するような議論だ。


君はどっちを選ぶ?みたいな。

社畜vs.自由、とか表現されるケースもある。
安定志向vs.リスクテイキング、みたいな。

僕もそういう究極の二者選択の中で、サラリーマンを辞め、自営、フリーの道を選んだ、という気分になっていた。


アタマの片隅では、「起業家・自営・フリー」の方が何となく、頑張ってて、自由を求める為にリスクを取った崇高な冒険者みたいなイメージを持っていたのかもしれない。



でも、それって本質の議論ではきっと無いはずだ。



前にブログでも書いたけれど、僕自身も表面上の「枠組み」に無意識にこだわり過ぎていたのではないか、と気付いたのだ。

自分がかつて所属していたような大企業と対比して今の自分はスモールビジネスだと定義したり、飲みトークなシチュエーションでの発言がアンチサラリーマンになっていたり。

最初にあげたブランドかダイレクトか、という議論に似ていると感じたのだ。

最近、一代で上場企業を築いた先輩に言われたような


「自分でスモールビジネスとか『枠』を決めるな。ビジネスに大も小もない」

という言葉に最近響いたばかりだったからなおさら、二軸な議論に違和感を憶えたのかも知れない。


そういう「何とか派」とか「サラリーマンかフリーか」みたいな議論は実はきっとどうでも良いのだ。



確かに自分の専門性を磨く、という意味で敢えて定義するのには充分意味があるだろう。


(前述の先輩のフェイスブックポストも、どちらも専門性を持って、ビジネスにあたるべきで、対立するべきものじゃない、というニュアンスを持っていた事は明記しておきたい。)


自分という人間が主体性を持って、自由と責任のいずれも背負っていくような経済的な活動には、大小とか、会社員も自営も起業も、何も関係がない。

全ては手段であり、人生の目的は別にあるし、その時々の戦略によって必要な戦術としての手段や場所を選べば良いだけの話なのだ。


それが真の意味で自由な個人、となるような気がする。
そう考えたら、むしろ人生のオプションが急に目の前に増えて来たような気がする。

何かにこだわっていると、大きなところが見えなくなる。

僕は、自分自身が主体性を持つ事で、自分がどっち派、どっち側、みたいな昔の自民党みたいな派閥の罠に陥るのはヤメようと、考えたのだ。

僕が歴史上の人物で最も尊敬するのは勝海舟だ。



優れた幕臣でありながら、政治家。イケメンでもある。
彼こそ大局を見極めて行動した自由人だ。


彼は幕府側にいながら、最後は維新後の政府側で重要なポストをいくつも兼任して、伯爵にもなった。

勝てば官軍、負ければ賊軍、と言われた時代に日和見と言われた揶揄を下のように一蹴した。

「行いは己のもの。
批判は他人のもの。
知ったことではない。」

実に名言だ。

大局を見据えて、徹底して自分の筋を通し、こだわり抜いて行動した姿に僕は深い感銘を受けるのだった。



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2015年5月24日日曜日

自分の可能性をブーストするにはどうしたらいいのか?

ところで最近、自転車に乗ってますか?


日本でもBike(カッコイイチャリと言う意味)で通勤する人も増えて来た。

昔行った上海はまだ地下鉄工事中で、みんなチャリ(いや、全然 'Bike'って感じじゃなかった)に乗っていた。

10年後に行ってみたら誰も乗っていなかった。
地下鉄が東京みたいに複雑な路線の数になっていた。

今ではむしろオランダとかドイツとかのヨーロッパの都市部にバイカーを見かける。カッコいい。


「自転車に乗る」というのは人生のメタファーとして使われる。

「自転車は止まるとコケてしまう。

だから常に前に進まなければならない。
これは人生と同じ!。
行動する事で安定するのだ!」

みたいな。。。

中にはチャリンコに乗れない、という人がいるかもしれないが、大抵の人は何も考えずに乗れるだろう。


最初は誰にとっても補助無しの自転車に乗るのは困難なチャレンジだった。
(今のチビッコにはストライダーがあるので、イージーに自転車に移行出来るけど。)

それでも、次第に慣れて、スイスイと風を受けて気持ちよく漕げるようになる。


ブレーキングのタイミングも、コーナーの曲がり方も、初めはヨロヨロしちゃうけど、脳からの信号が筋肉にダイレクトに伝わるようになって、何も考えずにどこまでも走れるようになる。

前と後ろに子供乗せているママさんとかは見る人によっては曲芸だ。

それでも、余裕で夕方の街を颯爽と走っている。

これは脳の画期的な作用と言える。

一度体得してしまえば、慣れによって、一々初めから「どう乗るんだっけ」とか考えたりする回路をすっ飛ばして、無意識で行動が取れるようになるということだ。

脳は思考したりする時に、凄まじいほどのエネルギーを消費するので、一度体得してしまえば、脳みそを酷使しなくても行動がオートマティックにパターン化する省エネ作用だ。 


習うより慣れろ、と昔の人は言ったが正しい。
もっと言うと、最初は習って後は慣れろ、が正しい。


これやってみたいっす! Video Credit : Smarter Every Day

だからこそ、この自転車には乗れないはずだ。(最初は)






このリンクの動画を見て欲しい。

自転車のハンドルに細工をして、右に回せば左にタイヤが回り、左に回せば右に、というもの。


つまり、ノーマルなチャリとは真反対な動きをするチャリ。

ほぼ100%の人がその自転車でまともに1メートルも進めない。

このヘンテコなチャリが「どう動くか」を知っているのに。

頭で理解していても、幼少の頃に学んで慣れ親しんだノーマルな自転車の乗り方が染み付いているため、うまくコントロール出来ないのだ。

この実験をした彼は、乗れるようになるまで8ヶ月も要したと言っている。


(ちなみに彼の息子は2週間で乗りこなした。子供の脳がいかに柔軟かということを示している。多言語を学ぶには小さければ小さいほど良い、みたいな話もしている。)

Knowledge ≠ Understanding


これがビデオのキーワードだ。

「知識」は「理解」とイコールじゃない、みたいな感じだが、わかりづらい。

「アタマで理解する」のと「カラダで理解する」のは違うんだ、という感じで意訳するしかない。。

(英語はこういう時シンプルだな。。。)

どうハンドルを切れば良いか知識として知っていても、実際に乗ると難しい、とかそういう意味だ。

脳からの信号が筋肉に適切に伝わってないのだ。

自動化されていたプログラムをもう一回リブーストしなくては、アタマとカラダの両方で理解した状態にはならない。

どうやら、一度脳みそが体得した「学びと経験」は「強固な習慣」となって、新たな学びをモノにする上ではバリアになっているのだ。。 

もっと言うと、講義でいくら勉強しても、本をいくら読んで、頭の中に知識が増えても、
それを実践して行動して「なんだよ、全然上手く行かないじゃないか!」みたいな経験をして、それでも愚直に実践を続けないと、最終的に体得は出来ない。


みたいな感じに僕は理解した。

新しいことにチャレンジする時、今までの自分の行動パターンやセルフイメージが強烈に自分を縛っているので、瞬時に自分が変われるなんて夢物語なのかもしれない。

しかも、あまりにも「オートマティック化された日常生活」を送っていると、何が自分の可能性を縛っているかにすら気が付かないかもしれないのだ。


そこをグッと意識して、コケても構わないから知識を行動で実践してみる。何度もトライする。

そうすれば、また新しい脳からの「信号回路」が成長する。

自分の可能性をブーストするには、愚直だけど、きっとコケるけど、それでも前に進もうとする行動が必要なのだ。


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2015年5月20日水曜日

ホノルルトライアスロン。めでたく完走!

この「諦める」ってやつはな、一度やっちまうと厄介な癖になっちまうんだ。

This quitting thing, it's a hard habit to break once you start.


by 映画「がんばれ!ベアーズ」の偉大なる飲んだくれコーチ モーリス・バターメイカー




快晴のホノルルはアラモアナビーチで開催されたトライアスロン。

初挑戦だった。
そして、めでたく完走した。

めちゃめちゃ気持ち良く、そして楽しかった。
苦しいのに楽しい、という経験は今までの人生で経験した事が無い。

最高の気分だった。

タイ式マッサージの痛いけど気持ちイイ、とか言うのとも違う。


とにかく、最後の1マイル、1キロ、これは苦しかった。

前を走る女性のトライアスリートに懸命で引っ付いていった。


彼女の後頭部と背中とお尻が、今でも目に焼き付いている。

最後に追い上げて抜かしてしまおう、とか考えた。
しかし、彼女も最後はペースを上げた。
抜けなかった。

名前も知らない彼女。

顔すら見れなかったけど、僕を引っ張ってくれた彼女に感謝したい。

きっと美人に違いない。
トライアスリートの女性はみな美しいのだ。

今回の参戦で明確に理解した事がある。


それは、「敵は常に自分の中にいる」ということだ。


最初のスイム。

時間が来てスタートエリアに集まった。
人種はバラバラだけど、同じように完走を目指して集まった連中だ。

記録を狙ってる連中もいるだろう。

みんな凄い実力者に見える。

僕は緊張していたが、先にスタートした人達を見ていたら何故か落ち着いて来た。


もう、なるようにしかならない。

とにかく完走すればいい。
そんな心地で一緒にスタートを待つ周りの男どもを見ていた。

彼らとバトルしてレースで競争するのだと思っていた。
敵だと思っていた。


それは完全に間違った考えだった。


トライアスロンというレースは、最初から最後まで「自分との闘い」なのだと、泳ぎ始めた瞬間に理解した。

レースは当然だが一瞬では終わらない。
結構な長丁場だ。

その間、ほぼ無言で泳ぎ、漕ぎ、走る。
無言という事は、いやでも自分と対話する事になる。

もちろん大会に出場する以上、僕の中に「どこかでツラかったらリタイヤしよう」というオプションは無かった。


とにかく前に進み続けるのだ。

それしかない。

それでも、「なんでツラい事をやってるんだ?」「手を抜けよ」みたいな悪魔の声は常に自分の中に存在していたように思う。


僕はとにかく、その声の主をやっつけたかった。

きっと手を抜いて歩いたって誰も文句を言う人はこの神聖な競技会場にはいない。

むしろ、足がつったのかな?オイオイ大丈夫か?と心配してくれるだろう。


僕は、この際自分の中のヘタレな悪魔の声、真の敵をコテンパンにやっつけてしまおうと決めた。

その時、僕の最大の支援者は、同じレースで同じように自分と戦っている仲間と競技者達だと気が付いたのだ。

懸命に前を向いて進もうとしている他の競技者の姿を見て、僕は感動に近い感覚に包まれた。


彼らを見ていたら、自分が前に出るパワーを貰えたのだ。

もしかしたら、僕の姿も誰かにパワーを与えたかも知れない。

心拍数があがり、スイムの腕が上がらなくなって来そうになっても、僕は彼らから与えられたパワーのおかげで多幸感に包まれていた。

最も苦手だったスイムが終わり、バイクに乗った。

楽し過ぎた。


大会の為に通行止めになったアラモアナブルバードを飛ばす。
楽し過ぎて歌を歌いそうになった。

それはかなりクレイジー過ぎるアイデアだと思い直した。

それでも気が付いたら、やっぱりヴァン・ヘイレンのジャンプを口ずさんでしまっていたのだ。

名曲だ。

最後のランはキツかった。
バイクで歌を歌うほど調子に乗ったので、足が思うように上がらない。

レース前に何人もの仲間から注意されていた点だ。

とにかく、前に進もう。

数カ所の給水所で、水とゲータレードをがぶ飲みし過ぎて腹がチャポンチャポンといっている。
両足のふくらはぎがツリそうな感覚がある。

むむむ、超ツラい。

そんな時は、どこまでも蒼いアラモアナビーチを見るんだ!
最高にシアワセじゃないか!
何なの、この感覚?!

絶対に止まるのはヤメよう。
そう心に誓った。

僕が自分の中の敵に勝った瞬間だった。



この写真を撮ったコーチの「スゴいスゴい!あと1キロだよ」の声に心底救われた。
感謝!


とかなんとか葛藤に打ち勝ちながらもヘロヘロで走っていた。
その時、僕の横をさっと抜き去る女性ランナーがいた。
それが前述の選手だった。

何となく、彼女のペースは僕の走りと相性が良いように直感した。
「よっしゃ」と、僕は彼女についていく事に決めた。



ゴール直前。前の選手に必死で付いていった。


参加しているトライアスリートは、敵ではない。
むしろ、お前を引っ張ってくれる同士なのだ。
そう確信したのだった。

人は一人では生きてはいけない。

人生と言う競技の最大の敵は自分自身の中に存在している。
それに打ち勝つには、仲間が、共に競技に参加する仲間が必要なのだ。


そういう事を実感出来たのが、今回の初チャレンジの最大の収穫だった。

世界中の皆がトライアスロンをすれば、世界は平和になるんじゃないか、みたいなことまで考えてしまった。

大会後の打ち上げパーティで先輩に言われた。
「これで、お前もトライアスリートだな!」

それに恥じないように、これからもトレーニングを続けよう。

自分に内在する敵に打ち勝つ事。
それは間違いなく快楽だ。

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2015年5月15日金曜日

ホノルルトライアスロンが5月17日に開催される。いよいよか〜。

MAJIでトライアスロンする3日前。


MAJIでKOIする5秒前と歌ったのは、20年前の広末涼子だった。

揺れ動く乙女心を書かせたら天才的な竹内まりやの作詞作曲だった。

当然、当時20代で男子な僕にはそんな心境など分かるはずも無かった。
B面は「とまどい」というタイトルだった。

聴いた事は無い。。

まさか、40代のオッサンになって、その心境が理解出来るようになってしまうとは!


期待と不安の入り交じった「とまどい感」炸裂な乙女の心境を。


3日後のホノルルトライアスロンに参加するのだ。


2年前に生まれて初めてホノルルでトライアスロンを観た。


僕は観戦者だった。
いや、傍観者だった。

スタートの開始時間頃にノソノソと起き上がった僕は、若干二日酔い気味だった。


それでも「応援しに行くよ」と言った自分の言葉を思い出してアラモアナビーチパークまで観に行ったのだ。

スポーツの祭典独特のポジティブな雰囲気に周辺が包まれていた。


皆、キラキラ輝いていた。

二日酔いの自分が恥ずかしかった。

真剣な顔、楽しんでいる笑顔、苦痛に歪んでいる顔。

様々だったが総体としてもの凄く爽やかで健康そのもので、感動的な空気が充満していた。

その場で一切汗をかいていない僕は浮いていた。

傍観者の分際でその夜の打ち上げにまで参加してしまった。


その後、仲間に誘われた。
僕はそれを固辞した。


だって、どう考えてもムリだしょって!?


今までの僕の日常は、全体的に見て健康的とは言い難いものだ。
もちろん、一度厄年にぶっ倒れて以来、健康には気を使っていた。

とは言え、酒は深夜までほとんどエンドレスに飲む。
飲めば飲む程、タバコも進む。(ハワイは禁煙の場所が多いが、東京の飲み屋はスモーカー天国だ。)

翌朝はもちろん二日酔いだ。

それでもジムには通っていた。筋トレだ。
腹が出た中年にはなりたく無かったからだ。

そして、ワークアウト後のサウナが何よりも楽しみだったのだ。
いや、それよりも最高なのは、その後のビールだった。


完璧なる「オッサン」だった。

トレッドミルや水泳みたいな有酸素運動には全く興味がなかった。


というより、僕の世界には存在しないものだったのだ。
視界にさえ入ってこないので、週4日通っているジムでも、そのエリアとフロアがどこにあるのかさえ知らない感じだった。


「疲れ知らずのカラダになりますよ。僕も煙草パカパカ吸ってましたけど、自然に止められました」
という40になったばかりの友人の言葉。

「筋トレも良いけど、40過ぎたら男はスタミナだよ。」
というトライアスロンチームリーダーの言葉。


日常に変化を望むなら願っても無い機会じゃないか!

それでも、やはり自分が泳いで、漕いで、走ってる姿をイメージするには時間がかかった。

そんな僕は今年に入った2月くらいからようやく走り出した。

先ず、ランだ。
1km走れば、もう無理だった。
オバアちゃんランナーに抜かされて心が折れた。

スイムも始めた。
50mで溺れた。


今まで100m以上泳いだ事はない。
それも中学の時限定だ。

バイクも始めた。
これは、楽しかった。
小学生の時に親に買ってもらった最新のドロップハンドルのチャリを毎日乗っていたワクワクする記憶が蘇って来たのだ。

あの頃はチャリさえあればどこまでも行けると感じていた。

そうか!
トライアスロンって、全て子供の頃にやってたヤツじゃないか!

子供は走るのが好きだ。
水辺で遊ぶのが好きだ。
チャリが大好きだ。

そこに気が付いたはいいが、やはり練習は必要だ。

そう思って、仲間と時間が合わない時は自主トレを開始した。(人がいる方が、モチベーションの維持が出来る。一人はどうしても怠けてしまう。。)

というのが、2〜3ヶ月前だ・・・・・・・。


「・・・・・・・・・!」

いやいや、やっぱ無謀だろ!
やっぱ無茶だろ!



おっと、ちょっと待て。

このブログのタイトルは人生を変えようだったじゃないか!



「大丈夫!」

そう仲間がcheer upしてくれてるじゃないか。


持つべき物は、既に幾つもの葛藤を乗り越えている先駆者たる友人達だ。

彼らの言葉には説得力がある。
彼らは僕にとってのヒーロー達だ。

僕は彼らから醸し出されるポジティブなオーラに牽引されて、導かれているのだ。

そうするとイケそうな気もして来るから僕も単純なのだ。


自分の場所じゃない、みたいな違和感を乗り越えろ!


もちろん、インターネットでホノルルトライアスロンの申し込みをクリックした後でも現実離れした感覚だった。


別の誰かの為に申し込みをしてあげた感覚だった。

このハワイと言う「トライアスロン」をする為に完璧な環境というお膳立て。
そして程よく厳しく&優しくエンドースしてくれる友人達。

この両方がなかったら、全く始めるきっかけすら無かっただろう。

僕がメンバーになったのは、作家でガチなトライアスリートでもある友人がリーダーをつとめるチームだ。

なんちゃってではなくて、数々の実績を持つようなマジでガチなトライアスロンチームだ。


まるでレアルマドリードに迷い込んだ草サッカーのオヤジみたいなのが僕だ。

朱に交われば朱になる、というが、それは当の本人が今立っている場所に強烈な違和感を感じることが前提だ。


今朝の朝トレでも、日本から続々と集まったトライアスリート達は、バッチリ、トライアスロンウェアに身を包んでいた。

カッコ良かった。

僕はと言えば、普通にトレパンでの参加だった。
まだカッチョ良いウェアが手元に届いていないのだった。



白鳥の群れにアヒルが一羽だった。

シェパードの軍団にパグだった。(いやパグ大好きです。)


今朝の直前トレーニング。フィットネスジム用のトレパンで滑走する僕(手前)。
ケツが痛い。
併走してコーチしてくれるのは、元プロレーサーで今はプロクラブの監督さん。
マジに凄い人に教わってるんだな〜

これを「違和感」と言わず何と言う・・。

僕が百戦錬磨のアスリートだったら、そういう外見の違和感を吹き飛ばすくらいのオーラを炸裂させるのだろうが、いかんせん新人社員でもないインターンと同じだ。

まずは、紺のスーツに身を包んで自己研鑽に励まなくてはならない。
何も出来ないのなら、せめて格好だけでもそれなりにしなくては始まらない。

そうやって、いつしか役員にとがめられても常にジーンズとTシャツという舐めた格好が出来るというものだ。
(サラリーマン時代の僕だ。)



2年前に撮った写真だ。まさか、コッチからアッチへ行くとは!

さぁ、本番は3日後の日曜日。
どうなることやら。


自分が「のほほん」、としていられる領域を出てしまわなければ何も変わらない。

アラモアナのビーチを、コースをただシンプルに楽しもう!
きっと天気も最高だろう!



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2015年5月14日木曜日

溜まっちゃたら出す。これ鉄則。


それが健康を保つ秘訣だ。


風邪を引いて熱を出すのは、カラダがウィルスという毒を出そうとしているのだ。


熱冷まし剤など飲んではいけない。

どんどん汗をかくに限る。

一晩ウンウン唸れば翌朝はスッキリだ。

昼メシ夜メシ、がんがん食ったら、朝は排泄の時間だ。


僕は朝メシを食べない。

 最近人気のジュースクレンジングもベースはそういうコンセプトだ。


生の野菜やフルーツのジュースは消化による内臓の負担がほとんど無いから内臓を休ませながら栄養素を摂るのに適している。

1日から数日、食事という摂取する行為を制御して、内臓を休ませ排泄にフォーカスさせる。


デトックスの原理だ。

溜まっちゃったら出す、という原則がここにも存在しているのだ。

ちなみに僕も行きつけのジューススタンドで月一やってる。(3日連続のはしんどい。なのでOne dayだけにしている。そういう微妙に、しかも決定的にヘタレなのが、自分だと自覚している。)

東京にいる時は大高酵素で実践してる。

大高酵素と僕の内臓の相性は良い。
腹が膨れるのでツラく無い。

カロリーは高いのでダイエットにはならない。
あくまでもデトックスだ。
(ハワイでも是非販売して欲しい。)


とにかく、溜めてはいけないのだ。どんどん出す事が重要だ。


思春期真っ盛りな中学生男子なら、このブログタイトルだけ見ても意味する所を瞬時に理解してくれるだろう。


そう。僕は、あの頃に人生の真理に気付いていても良いはずだったのだ。


インプットしたらアウトプットしなくてはいけない。

それが真理だ。

スーパーで買い物をする。


僕は世界の至る所のスーパーが無性に好きなので、つい楽しくなって面白そうな食材を買い込んでしまう。

そして、ある日発見するのだ。
冷蔵庫の奥の方で完全にミイラ化した食材を。

週末に作ろうと思って買ったアーティチョークが茶色く変色している。


さらに、ヒゲみたいな根っこの生えた人参と遭遇するのだ。


まだイケる。明日の朝のジュースにしよう。

(もちろん、冷蔵庫の奥底に埋もれたビール缶を発掘した時の喜びは筆舌に尽くし難い。しばし喉を潤す為に休憩をしよう。)

要するに溜め込んでしまうと腐るのだ。


それはきっと「知識」も同じだ。


勉強ばかりして、ビジネス書ばかり読んでノウハウばかり溜め込んでも、実践でアウトプットする機会がなければ朽ちてしまい悪臭すら放ってしまうようになるのだ。

口を開けば、知識と理屈のオンパレードだけど、実行が伴わない人が周りにいると思う。

(オレはどうなの?ま、自分の事はこの際、棚に上げておく・・・。)

僕の高校時代にホットドッグプレス(80年代伝説のティーン雑誌。ポパイが表カルチャーならホットドッグプレスは裏だった)を読みまくって、女性の口説き方のマニュアルが全て頭に入っている男がいた。


ところが「女性を誘い出す」「そこで実践し、手痛い失敗をしてフィードバックする」という一歩が踏み出せないので、そのまま朽ちてしまったヤツがいた。

もちろん、彼に聞けば、どのデートスポットに行けば女の子のガードが極限まで下がるか、ということが分かったので、そいういう意味では有効だった。

僕は、会社を辞める前にある経済界でも著名な占いの先生にお会いする機会があった。

僕は雑誌の巻末や朝のワイドショーのエンディングの「今日の占い」みたいなヤツをとことん信じないタチだ。


それでも、さすが経済界の重鎮と懇意にしているその先生はひと味もふた味も違っていて、一々一言一言が勉強になった。

その先生に言われた。


「あなたは今まで、社会や会社から与えられ続けていた。

それは知識だったり、経験だったり、お給料だったり。
そういう時期の転換期にあなたはいます。
これからは『得る』ことよりも『与える事』を考えて行動して下さい。
そうすれば運気はまた上昇するでしょう」

要するにInして来たならOutもしろ、ということだ。

人生で得た事をどんどん惜しまず提供しろ、ということだ。
Inするだけなら座学でOKだ。
しかし、Outする行為は行動を伴う。

持ってる知識を人に提供して役立てたり、自分のビジネスで実践しなくてはならない。

アクションが大事だ。

知識を得たらtryしてみる。

Now or Neverな行動がなければせっかくの「知識」も冷蔵庫の奥で朽ち果てた残念な食材のようになってしまう。

腐る前に、引っ張り出してまな板に載っけて包丁を入れるのだ。


そうすれば、素材がアイデアに変わる。


知識を吸収したら、どんどん吐き出す作業をやって行こう!

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2015年5月8日金曜日

スタックした!そういう時は迷わず「禅」だ!

会社を辞めてまる2年が経った。


ハワイと言う楽園に住んでから2年が経ったということだ。

「この2年は完璧でした!全てがスムースで予定通り!

オレって最高!ハワイに乾杯!」

みたいな感慨は皆無だ。


正直に書こう。

僕はこの1ヶ月スタックしていたのだ。

完全に。
2年前に考えていたゴールというか目算から大きく現実がずれて来てしまっているのだ。


ビジネス、ライフスタイル全般だ。

最初は小さな誤差だから気にしてなかった。

冒険をしていれば、ちょっとしたアクシデントは自然に起こる。

しかし、2年も経てばチリも積もってしまう。

あたりまえの事だが、フリーになってしまえば誰も自分の仕事っぷりを評価したり査定したりしない。

今僕にあるのは顧客や家族、友人からのダイレクトな反応だけだ。

自分のパフォーマンスは自分がよく分かっているので、もの凄くネガティブに自分を評価してしまう。

僕は自分にもっと甘いと思っていた。


フリーになれば、会社とかボスからの評価を気にせずにノビノビと活動出来ると感じていた。

そして学んだ。
自分を客観的に評価することは難しい。

ここがダメだ、あそこがダメだ、という感じでオレってこんなにダメ人間だったのかと驚く程だ。


なぜ、会社を辞めた時に理想とした2年後に辿り着いていないのだろう?

これが部下だったら、色々コーチングを駆使して、「いや、君のここは良い所だよ。だから伸ばして行こう」とか「何事もポジティブに考えなきゃいかんぜ」とか言えるのかも知れないが、いかんせん自分で自分を励ますこと程茶番に思える事は無い。

セルフコーチほど難しいものは無いのだった。


PDCAサイクルで上手く行く!」
みたいなのは、他人事だから言えるんじゃないか、という気がして来た。

個人企業家が外部にコーチを雇う気持ちが最近よく分かって来た。

とにかく、どうやったら今より改善して、今後サバイブ出来るのか、みたいな事を常に考えてこの1ヶ月を過ごしていた。


だから

「2年経ったって?What the heck? それがどうした?」
みたいな身もフタもない心境になっていたのだ。

そして堂々巡りになり、文字通りスタックしていたのだった。


ブログの更新が滞ったのも、そういう分かりやすい理由からだった。

どうしたら理想に近づけるのか。
今までの行動のどこが間違っていたのか。
答えはどこだ!


もう一度、飼い犬に戻りたいか?

僕のブログを読んでくれている人は意外に若い人が多い。
割合で言うと20代〜30代が60%を越える。

もちろん、残りの大半は同世代の40代だ。

だから本当は何か「為になる」ことを書く方がベターだろう。

ただ、人生にはスタックやスランプは付き物だ。
バイオリズムには振り幅がある。


あのイチローだって、WBCの時にスランプに陥った事を告白している。
避ける訳には行かないのだ。

イヌだったころは、孤高に生きる狼に憧れた。

いざそうなって見ると、毎日決まった時間にペディグリーみたいなドッグフードを与えられ可愛がられているチワワを見て、羨ましく感じてしまうのだ。

もう一度チワワに戻ってみるか、とか考えてみた。

明日のエサの事を考えなくていいと言うのは、この世の楽園じゃないか!
ハワイに匹敵するくらいの楽園だ!

いや、この歳でチワワは無理だ!
そもそも会社員の頃だってチワワみたいな愛くるしいワンちゃんじゃなかったじゃないか。

とか逡巡としながら、実はオレは狼みたいにカッコイイやつじゃなくて実際は野良犬になっただけじゃないか、みたいなルーザーな感覚に襲われる。

こういう時は、人に会ったり、書籍を乱読するに限る。
頭の中を、新しいインプットでグチャグチャにして敢えてカオスを作るのだ。


そのカオスから何かが浮かび上がって来るのを待つのだ。



ビジネス書に答えは無かった。


浮かび上がって来たのは

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなし」
という言葉だった。

道元の言葉だった。
そう「禅」だ。

仏教とかから一万光年離れた所にいるような僕が禅かよ?
ポップカルチャーで育った僕が「禅」とは!

(人はこうして宗教に目覚めるのか、とか思ってしまった。
よく中高年の人が、お遍路とか喜んで行っているのをみて、あの人達はビートルズやウッドストックに熱狂したロック世代なのに、なぜ!?とか思っていた。)


中学の時、奈良京都への修学旅行で聞いたお坊さんの説法が今までの人生で聞いたスピーチの中でも最高に残ってる。
スティーブジョブスも禅に影響を受けたことを明らかにしてる。


うを水をゆくに、ゆけども水のきはなし

魚は水の中を目的を持って泳いでいるのではない、自然に任せ、流れに逆らわずに泳いでいる。


とかそういう意味だ。

道元は言う。
「無目的に生きなさい」と。


1年先、2年先はこうあるべき、そう思って生きるから「今」がつらくなる。


今すべきことに没頭して明るく生きろ。
その努力の結果に関しては、自然まかせだ。

まじか!と。

僕は良くクライアントにも家族にも言っている。


目的やここに行きたいというゴールがなければ、今どうするかが分からなくなってしまう。


だから、プランの有無は別にして、目的は持つべきだ。
戦略的に生きたいのなら、なおさらだ!と。

まったく道元の教えは真逆だ。
将来の目的を持つから、「今を生きる事」が出来ない、と説く。

まさにこれが「禅問答」ってやつか!

でも、今のスタックした自分にはしっくり来るのだ。


そして書き出す。徹底的に「無心」で書き出す。



僕は、自分にもう一度向き合おうと決めた。
人生の意味とかビジネスの目的は、横に置く事にした。

ありったけの本音を紙に書きなぐってみようと思い立ったのだ。


正しくはEvernoteを立ち上げてキーボードを叩きまくったのだ。

当然人には見せられないような内容も含めてどんどん流れるように出て来た。

自分ですら直視したくないような、恥部みたいな事もガンガンに書いた。
これが漏洩したら、地球の反対側サンパウロとかまで高飛びしたくなるくらいの恥部だ。

禅にインスピレーションを受けただけに、神がかっていた。
自分じゃない誰かがブラインドタッチでキーボードを打っている感じだった。


どうにもコントロール出来ない色々な問題。
主にビジネスに関してだったり。
夫婦の口論の元になる問題だったり。
果ては何でオレはサーフィンが上手くならないんだ!とかいうことまで。

自分の中にあるネガティブな要素を書き綴った。

まるで精神のデトックスだった。
どんどん毒が出て来る感覚だった。

書き始めは、環境や他人のせいにするようなトーンだった。
自分ではない、どこか他に原因があるような書きっぷりだった。
だから人様には見せられない程のダークサイドな自分だ。

そして、あぶり出されて来た真実をとうとう見つけてしまった。


全ての毒の根源は僕の中にあったのだ。


神がかって書きなぐったので、対照的に書くと、自分の中に悪魔を見つけたのだ。


そいつが、全ての毒を僕の体内に吐き出していたのだ。

思うように行動出来ないことを、僕は他者に責任を転嫁していた。

表立って、誰かにクレームを付けた、ネチネチと恨んだとかそういうことではない。


それは自分の尊厳にかけて無いと言える。

ただ、ありとあらゆる自分の問題の責任をどこか別の所にあると無意識に思っていたことに気が付いた。
他人だったり、行政だったり、果てはハワイのゆるい空気にすら!


それがこの1ヶ月間のスタックの原因だった。

吐き出してみて気が付いた。

今、自分がここにいるのは、全て自分が選択した結果なのだ。
スタックの原因も外にあるのではなくて、中にあったのだ。

道元の言う通り、今を「確実に」生きる為には、真実の自分を発見し直視しなくてはならない。

そうでなくては、「禅」の教えは生きてこない。
そう悟ったのだ。

僕は、この作業をして、ほぼ1ヶ月振りに晴れやかな気分になった。
作業時間は30分くらいだった。

根が単純過ぎると言うのもあるかもしれないが、本心で自分で向き合う作業は、一種の悪霊退治みたいだった。
エクソシストの神父の気分に浸れる事が出来たのだった。

やみくもにストレスを抱えてまで、先のゴールを目指すというのもアリだろう。

ただスタックした時は、「今」だけを見つめるというのはとても大事だ。

そして、自分の内側の奥底にある何かがスタックの原因かもしれない。
そういう時は、「今」にフォーカスして、洗いざらいぶちまけるのは有効だ。

僕は、それを悪霊退治と呼んで、今後またスタックしたらその作業を行うだろう。

全ては自分事。
答えは自分の中にあるのだ。


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