Koy's blog

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2015年8月31日月曜日

行動すれば、やがて世界は動き出す。80年代の夏休み。

自分が行動をすれば、やがて世界は動き出す。


僕が最初にその事に気が付いたのは、16歳の夏休みだった。

きっかけは、もちろん「ナンパ」だった。

それまでの僕はどちらかというと、「ナンパ」をするタイプじゃなかった。

もちろん、女の子には興味があったし、付き合ったりした経験もあって、奥手なタイプじゃなかった。

むしろ、ダサいくらいに「クール」ぶっていたのだ。

おちゃらけて、女の子に声をかけるようなグループにいながら、自分では動かないタイプだ。

意を決した誰かが女子グループときっかけをつくる。
幾多の恥ずかしい思いを乗り越えた結果のご褒美として、女子達となんとかお知り合いになる。

その後になって、ようやっと僕は女の子が気になるような雰囲気を醸し出す事に注力するのだ。

マーケティングで言うところのポジショニングのテクを駆使して、存在感を出す事に持てる全てのエネルギーを使っていたのだ。


この作戦は結構Workして、他の男子がアホ丸出しな宴会芸をしている横で、「なんか、あなたって違うね」とか言われることになる。

僕はうそぶく。

「そんな事無いよ。オレには(ナンパしたり、宴会芸する)勇気が無いだけなんだよ。」とかほざいて、女子にこの人は硬派なんだ、彼女になったら大事にしてくれそう、みたいなことを二人に一人の確率で思わせる事に成功していたのだった。

なんということだ!!
一番最低なのは、まさにそういう男だ。

硬派を装う軟派がこの宇宙で一番信用出来ない!

もし僕に将来娘が出来たら、そういうナンチャッテな硬派なハレンチ野郎は一発で見破ってやる、とか後に考えるようになった。

20年後に生まれたのは息子だった。

ところが、16歳の夏につるんだ御ボツ(金持ちのボンボン)は僕の上を行くクール野郎だった。

当然だが二人でいても何もイベントが起こらないのだった。

貴重な10代の夏休みだってのに!

このままでは、友人の家で笑っていいとも!を見て、都営プールに泳ぎに行って、そいつの兄貴から譲り受けた何万冊もの(そう見えた)漫画を読みふけり、機密ルートからゲットしたエッチなビデオを見て夏休みが終わってしまう!

夏に若い男女が集う場所(当時はディスコとかイケてる連中が企画したパーティーだったが)で年中雑誌に載ってるようなイケメン高校生でもなんでもない、クール気取りなただの男二人なんて、面白くもなんともない存在だ。

(幸いニキビ面ではなかった。ツルんとした頬っぺたのカワイイ高校生だった。)

とにかく、彼にはまだ別荘とか、父親名義のヨットとかのネタがあったが、僕にはオヤジからもらう株主優待の映画のチケットくらいしかない。

これは、まさに「今そこにある危機」だった。

クライシスマネージメントとは、危機を回避する為にあらゆる可能性にチャンレンジすることだ。

すなわち、行動するリーダーシップのことだ。
そう主人公のジャック・ライアンは教えてくれたじゃないか。

という事で、今までの座してエサを待つ、という態度を改めた。

一向に動こうとしない友人の間抜けな横面を見ながら思った。

何かを待っていては何も状況は変わらない。
こいつには、別荘とヨットがあるが、オレには何もないじゃないか。 

そういうこともあって、僕はおちゃらけなナンパ担当としての明確な意志をもってプロジェクトに臨む事になった。


変わるのは自分だ。
イノベーションとは考えながら行動することだ。


やってみれば「ナンパ」ほど奥が深いものはなかった。
代ゼミの夏期講習よりも10代の僕にとっては勉強の場であり、修練の場になった。

何しろ、「失敗」が前提の行動に他ならないからだ。
「失敗」は「ナンパプロジェクト」においてはデフォルトだ。
化学者の実験室みたいなものだ。

僕にとっての実験室はディスコやパーティーだった。

無視、ならまだいい。
中にはハエを見るような蔑んだ眼差しを向ける女子もいる。

正直ヘコんだ。
プライドがズタズタになるとはこのことだ。

少なからず、女の子から告られた経験を持つオレがこんな目に遭うなんて。。
(小学生の時の数回と中学の時の1回だけだ。)

ナンパは効率が悪い。

世の中に「ナンパ」が好き、という女の子は皆無だ。
逆に「ナンパして〜!」みたいな女子達を僕たちは敬遠していた。
随分勝手な話だが、しょうがない。


後で聞けば、僕の別の友人達は、キレイな女の子が集まるカフェみたいなバイト先や、女子大生が読モをしてるような雑誌の雑用係みたいなバイトを戦略的に選んで夏休みを有意義なモノにしていた。

彼らは戦略的な行動家だったのだ。
当然、優れた戦略家は競合である僕らにはそういうオイシイ話を作戦実行中はシェアしない。

僕は残念ながらそこまでの戦略家ではなかった。

言うなれば歩兵だ。
前線で失敗を恐れていては、前に進む事が出来ないのだ。


失敗が前提だとしても「行動」を起こさなければ、なんの展開も望めない、そう悟った16の夏だったのだ。

失敗は当然、フィードバックして次回に活かす。
最後の方は、心理学の本まで読むようになった。

とにかく尾崎豊の「十五の夜」、みたいなストイックな感じでは何も産み出す事はない、と確信したのだった。

あれ?ちょっと待て。

本当は、広告代理店に20年勤務した僕が、何故会社を辞めてハワイで住む事を決めたのか、行動することでどう世界が変わるのか、ということを書きたかったのが「ナンパ」の話になってしまった。

せっかく書いたので、このまま続けてしまうことにしよう。

この夏の自分イノベーションの結果は目覚ましいものがあった。

幾多のミッション失敗の後、カッコつけで買った6つ穴式のスケジュール帳の電話帳欄は十数人もの女子の電話番号が並んだ。
(当時は携帯電話というツールがなく、家の電話のみだったので、女子の両親のいずれかと最初に話すと言う難所もあった)

何人かとは、個人でもグループでも遊びに行った。
80年代後半の華やかな雰囲気の中で、高校生に出来る精一杯の合コンも企画した。

ほんのり甘酸っぱい思いもした。
「笑っていいとも!」は日曜日の増刊号で見るようになった。

妙にクールぶって自分を作る事も無くなった。
青春っていいな〜オレ今ど真ん中だなぁ、とか素直に思えるようになった。



Credit: flickr Quentin Meulepas





ストリートスマート、という言葉を思い出す。

机上の空論なアカデミックな理論より、実地での経験を積み重ねる事で実践で使える知識とスキルを得る、みたいな感じだ。


結局、これも自分の「行動」の積み重ねによって、得られる自分なりの「知見」ということだと思う。

たかだか、「ナンパ」だ。
しかし、されど「ナンパ」だったのだ。

今、この歳でさすがにナンパなどしないし、したら「ど」が付く変態だ。

ただ、あの「自分で動かなければ、世界は止まったままだ」という感覚は今も心の奥底に宿っていると気が付いた。


16歳のあの夏、僕がクールぶって行動をしなかったら、愉快で痛快でそしてちょっと切ない夏休みは、きっとやってこなかっただろう。

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2015年8月29日土曜日

レストラン業界はクリエイティブアイデアの宝庫である

ここ数年、コミュニケーションの手段としての「広告」は「クリエイティブ」としてその役割を終えた、とすら感じている。

それは、「テレビCMからデジタルへの移行のことか」、というのとはちょっと違う。

前から思っていたのですが、最近特に、

日本で最もクリエイティブな業界は飲食業界

ではないかと思っているのだ。

コミュニケーションにおけるクリエイティブを売りモノにする広告業界出身の僕はそう思う。


もちろん、飲食業界は広い。
ひとつの業態を見て論評できる世界では当然ないだろう。

オヤジがやってる古くからのシンプルな支那そば屋、ブラックの代名詞となってしまった某居酒屋チェーン、
ミシュランの三ツ星がつくようなレストランまで様々だ。


僕はグルメではない。


僕の舌は、ビジネスクラスの機内食であれば、「美味い!」と言ってしまうレベルだし、
牛丼チェーンを愛用してるのは、安い、便利、以外に「マジに美味い」とか思っているからだ。

そもそも、お酒の種類も含めて好きな食べ物を聞かれると答えに窮してしまう。


その場のタイミング、雰囲気で僕の舌の感覚は大きく左右されてしまうからだ。

かつてミシュランの星がついたレストランに顧客の接待で行った事があります。
その客とのトークは信じられないほど気を使うものだったので、その店の料理の印象も味気ないものになってしまった。


お客と別れた後に行った床が油でギトギトなラーメン屋の豚骨の美味さは身に沁みた。

真冬のどうしようもないくら寒くて、孤独な夜、みたいなシチュエーションで吉幾三かなんかが流れている客の少ない居酒屋のカウンターで飲む熱燗は最高の味がするだろう。


素敵な割烹料理屋で素敵な女子と飲む獺祭より美味いかも知れない。(これは嘘だ)


「食」というのはダイレクトに人間の「本能」や「感覚」に直結している。


だから、同じ質の料理を出しても、その雰囲気や、レストランの持つストーリーによっても客側の体験が変わってしまう。


もちろん、客サイドの経験も大きく関与する。

究極のワインといわれても、自分の舌が数多くのワインに親しんでなければその価値は恐らく分からないだろう。

そういう、「感覚的」な舞台で勝負して「リアルビジネス」を展開しているレストラン業界というのは、まさに圧倒的に大変だし、常に客のポジティブな、もしくは理不尽な評価にさらされている。

今はネット社会なので、エセグルメみたいな素人からの評価にさらされる。

雰囲気も抜群な店も90年代後半から圧倒的に増えて、今でも留まる事を知らない。


熾烈な競争社会だ。

そこでは、いくつもレストランを展開する企業も個人も同じ土俵で勝負している。


(そういう意味では、超大手二社に独占されている広告業界より健全でフェアだ。)

しかも、東京だけに限らず日本の外食は基本的に美味しい。


僕の舌はグルメではないが、やはりオフクロに「出汁」の味を仕込まれたせいか、「マズイ」ものは即座に分かる。

アメリカは、申し訳ないが本当にマズイメシ屋が多い。


「美味い」という評判のイタリアンでも日本の街の喫茶店のママがつくるミートソースやサイゼリヤの方が100倍ウマい場合だってある。


というか、その方が圧倒的に多い。(あくまでもオレの舌調べ)

日本ではマズかろう安かろう、という原則が急速に過去のモノになっている。

安くても抜群にウマい所が一杯あるのだ。
その中で、競争し、かつ客単価を上げて利益を出すのは生半可な努力では無理なのは、グルメな舌を持たない僕でも分かる。


飲食業界にとっては大変な時代だ。

僕はこんな時代にレストランビジネスを展開している諸兄諸氏の皆さんを心から尊敬している。

お客さんが満足する空間を作り、心地良くし、さらに「食欲」という本能を満足させるメニューとレシピ。


そこにあるのは、


「感覚的な顧客体験」と「リアルビジネス」のマリアージュだ。


これこそがクリエイティビティと言わずして何と言うのか分からない。

そこでは「味の体験」はデフォルトだ。

さらに「ストーリー」「世界観」「顧客を裏切らないサービス」の確立が必要なのだ。

さらにリピートしてもらうには「常に期待を上回るサービスを提供」することが求められる。

それはクリエイティビティへの挑戦だ。

クリエイティビティとは「問題解決への態度」だと僕は定義している。


そしてクリエイティブとはすなわち「ソリューション」の事。






人間の究極のニーズである「食欲」へのソリューションを常に考えているレストラン業界には示唆が多い。

何度も書いて恐縮だけれど、既にこの時代、オールドスクールな「広告」はブランディングにおいては全く頼りにならない。


ブランディングにおける「問題解決」の示唆の多くが「レストラン業界」に多く存在している。

マスメディア以外の個人や街がメディアになり得るのは、既に確証済みだが、果たしてその方法を探るのは簡単ではない。

その点で、レストラン業界の動向やチャレンジは「広告」に頼らないブランド創りにおいては大いに参考になるのである。


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2015年8月4日火曜日

旅の終わりと始まり。

暑い!暑過ぎる!


予想はしていたが、これほどとは。


生粋の東京生まれ昭和歌謡育ちで、近年の酷暑を何度も経験していたのに。


カラダは優し過ぎるハワイの気候にあっという間に順応してしまっていたのだ。

ハワイを拠点として生活した2年間をひとまず終了したのだった。


東京に戻って来た。

8月の東京はもはや体中の骨が溶けるような暑さだ。

それでもハワイでは聞くことの無かった蝉の大合唱を聞くと「ああ、これがまさに夏だ」と実感する。


ハワイはエンドレスサマーで信じられないくらいに幾つもの素敵なビーチに囲まれて過ごしたが、潮の香りはあまりしない。

たかだか2年のハワイ暮らしでは、いまだに僕にとっての「夏」の感覚はこれなのだった。


このセミ騒音、もとい、蝉時雨とアジの開きが干してあって潮の香り満載な漁港が日本の夏なのだ。(いや、東京にそういう景色はあまりないが。)



ビジネスと子供の進学のリアリティ



ベースを東京に戻す決断をしたのは、5月末だった。


ビジネスをどうすべきか、子供の学校は?

ハワイでユルくなってしまった脳みそを酷使して、この先の人生を考えたのだった。

商売繁盛と子供の小学校進学というのが現時点で僕らファミリーにとっては二大プライオリティだった。

もともと、息子が小学生になる時には日本に戻ることを前提と考えていたようなロンバケ状態だったのだが、
現実的にハワイ、というか外国で暮らして行く中で、様々な選択肢を考えるようになった。


ビジネスもその日暮らしではなく、今後の色々な展開を考える必要があった。

もっと自分のスキルを活かすには、もっと大きくて、かつセグメントされた市場が必要だと実感していた。

ハワイでも出来るには違いない。
だが、もともとナマケモノの僕には、ハワイは優し過ぎる。
東京という都会の刺激もなくてはならないと良く分かった。

もちろん今は、ネットを使えば世界中どこにいてもある種の仕事は可能だ。

それでも、リアルに人と接する方が何倍も早く仕事は進行するし、信頼関係の構築も楽チンだ。

そして5歳の息子の学校だ。


ハワイのプライベートスクールへの進学、コストがほとんどかからないけどレベルの高いカリフォルニアの公立学校なんかも真剣に考えた。

LAには実際に行って、めぼしい街から街へ車を走らせて生活するイメージを浮かべたりしてみた。


マンハッタンビーチには真剣に住みたいとか思っていた。

当然、予算が全然足りない、という現実には目をつぶった上でだ。 


ハワイは人種が程よく分散している。


まさに子供の頃からダイバーシティを味わうには適した環境でもある。

とは言え、ハワイで私学に通わせるにはとんでもないお金がかかる。

高校卒業までに私立大の医学部の子供が10回以上留年するようなコストがかかる。

しかも日本語の学校とのダブルスクールとなると、とうぜんコストもダブルだ。

僕らファミリーは日本人だ。
家での会話は当然だが日本語だ。

僕も英語での会話には不自由しないが、普段の思考は当然バリバリに日本語でしている。


日本語はひらがな、カタカナ、漢字という3種の文字が存在する、という世界でも類を見ないほどトリッキーな言語だ。

そういうトリッキーな言語を息子が習得する上で日本語スクールだけに任せるのはリスクに思えた。


しかもハワイにある日本学校の場合は、土曜日に日本の学校の一週間分の勉強を詰め込むらしい。

もし、息子が僕に似て勉強嫌いだったら、ハワイは楽園ではなくて、地獄になってしまう。


そして親もそれに付き合うのだ。
無理だ。

いや、これからはグローバルな時代なので、日本語が変でも英語が出来ればいいじゃないか、みたいな考えは僕は持ち合わせてはいなかった。

僕らは移民をした訳ではなかった。

周りには、新一世というか、ハワイで骨を埋めるべく、そういう覚悟を持って移住した人達もいた。


皆、日本人の誇りを持ちながらハワイを愛していた。
そしてハワイのライフスタイルを謳歌していた。

そういう人は、親の母語と子供世代の母語が変わるかもしれないことへの覚悟を持っていた。

僕はそういう覚悟を持っていなかった。

また、ハワイに限らず海外で生活していて小さな子供がいる家庭では日本語の学習に色々苦労している人達もいた。

特に両親の片方がノンネイティブな場合は、日常の会話は英語が主体になるようだ。


分かりやすく言うとパパがアメリカ人でママが日本人みたいな場合だ。

最初は第二外国語として日本語を子供に教える。
ママは必ず日本語で話すように心がける、みたいな。

それでも高学年になると日常で必要のない「日本語」を勉強することの意味を子供自身がが見出せなくなってしまう。


モチベーションがダダ下がり、と聞いたこともある。

日本語ネイティブの方の親(まぁ、圧倒的に母親が多そうだが)が諦める、というパターンが多いみたいだった。

ウチは、双方日本人なので、家では日本語を徹底すればいいだけの話かもしれないけれど、やはりトリッキーな日本語をネイティブにするのは、環境は重要だと思ったのだ。


しかし、ここは誤解されないように書かなくてはいけない。



ハワイの親しい日本人ファミリー中でも子供がハワイ育ち、というファミリーは多い。


大きくなった子供も、米語も日本語もバッチリ完璧なバイリンガルも多いことは書いておくべきだろう。


トリッキーな日本語を敬語含めて完璧に駆使している人など沢山いる。


芸能人を見ても、長谷川潤とかスミレとか英語も完璧なら日本語も完璧でしかもセクシーでチャーミングだ。


要するに、この話はどっちが良くて悪いという話ではない。
単に、家族と言う単位での価値観の話でしかない。


そういう、自分自身の価値観とコストと言語環境と教育の中身、今後やって行きたいビジネスの展望、今後の人生のイメージ、ハワイの最高な天気とビーチ、東京の憂鬱でジメジメ感炸裂な夏、というprosとconsをグチャグチャにミキサーにかけて、ぽんと出て来た答えが「東京ベースの生活に戻ろう」というものだったのだ。

もっと言うと、ハワイは楽園過ぎるのだ。

子供がずっとそこで育ってしまうと、東京や都会にアジャスト出来ないんじゃないか、という心配もあったのだ。


僕が東京で育ったからこそ感じる外部者目線での「ハワイの価値」というのを共有出来なくなってしまうかも知れない、とか考えてしまった。

とは言え、まぁ、そういうのも人による。

ハワイ出身でLAでバリバリに都会人しながら、エグゼクティブなビジネスライフを送っている僕の元同僚のアメリカ人とかも存在する。


しかも、ここで育った少年は今や合衆国の大統領だ。

結局、親である僕らの勝手なジャッジには違いない。



この素晴らしきビーチを忘れるなよ。
そして日本にも有数のビーチが、しかも関東にもあることをこれから知るのだ!


人生のほぼ半分をハワイで過ごした5歳の息子にとってこれから日本で送る学校生活がベストであるように環境をセットアップするしかない。


というわけで、秋以降からの展開を考えた時に、ベストなタイミングというのが、はたから見たら天国から地獄へ来たのかのように思える、灼熱・酷暑の極み、な8月の東京だったのだ。


そういえば、ある外資系企業では東京に海外から赴任する際に、熱帯地方とかそういう所に赴任するのと同じような「酷暑手当」が出ると言う。



それを聞いた当時は、なんだよそれ、とか思っていたが、マジで誰かに手当してもらいたい。



身体機能が楽園仕様になってしまっていて、帰国一週間経っても毛穴が開きっ放しで、ペットボトルの水を手放すことが出来ない。

とは言え、愛する故郷の日本だ。


ライフチェンジングで行動を是とする人生の旅はこの東京でもきっと続くのであった。


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