Koy's blog

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2015年7月5日日曜日

最近よくある特定の国や国民性を擬人化してレッテル貼りをしちゃう件について

ブログの更新が大幅に滞ってしまっていた。

ネタが尽きた。。。


とかそういう訳ではなくて、逆に書きたい事があり過ぎて、書き始めるとありとあらゆる方向に話が飛び過ぎてしまって収集が付かなくなってしまっていた。

何かを伝える為には「Single Minded」でなくてはダメだ。
日本語で言うと、「徹底的に一つのテーマに限定」することが必要だ。

やみくもな散文ではせっかくこのブログを読んでくれている人に何も伝わらず、時間の浪費を強いてしまう。


ということで、僕はブログのドラフトをevernoteに書いてるのですが、ブログとしてポスト出来ないような「散文」が一ヶ月分溜まってしまっていた。

そうやって、一ヶ月分の駄文を改めて読んでいたら、「何が言いたいんだよ、これ?!」みたいな反省とともに、その中から大きなテーマがいくつか見えて来た。

そのウチの一つを今日は書こうと思ってます。

それは「国や、そこの国民性を擬人化して語るのはヤメよう!」ということだ。



僕はここ数年見かけられる、日本の自治体がゆるキャラを作って広報活動する風潮が嫌いだ。


ふなっしーとかクマモンに喧嘩を売るような発言だ。
ただ、どうしてもその土地柄とゆるキャラとの間に何ら関連性を見出す事が出来ない違和感があって仕方ない。

今後の仕事のテーマの一つとして、そういう風潮に風穴を空けたい、という野心を持っているのですが、その話は別に譲るとしよう。


今日のテーマは「ゆるキャラ」をディスるモノではない。。


要するにこういうことです。


ある自治体や都市や国を特定のキャラで括るのは、一瞬分かりやすいが、とても危険な行為だと僕は考えているのだ。

例えば、あなたは「韓国」「中国」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?


最近では随分ネガティブな印象を持つかも知れない。
それは「敵キャラ」みたいな感じだ。

その根本には「反日」「領土問題」だったり「公害」だったり、「旅先でのマナーのヒドさ」だったりするニュースに接した事があるのかも知れない。


もしかすると、実際にそういうネガティブな経験をしたことがあるのかもしれない。

でも、そうやって特定の国や地域やそこに暮らす人々にある「レッテル」を貼る事は、とてもイージーでそして危険なことだと思うのだ。


本来、一個人として存在している人々を安易に括ってしまう事になるからだ。 

大抵、ニュースなどに取り上げられるのは「ノイジーマイノリティ」の人々の声だったりする。
よくある非常識な「クレーマー」とかもその範疇だ。

ノイズを上げれば、マスメディアはそれを拾う。
そしてそれは大概ネガティブな要素を含んでいる場合が多い。
そして拡散していくのだ。

だから、ある特定の国・地域の人々のことを語る時に、そのエッジの立った情報だけで判断して、勝手にキャラ付けしレッテルを貼ったりするのは、大きく判断を間違う事にもなり得るのだ、ということを肝に銘じた方がいいと思うのだ。

先の「ノイジーマイノリティ」に対して「サイレントマジョリティ」という言い方がある。


「モノ言わぬ多数派」だ。


そして、サイレントマジョリティこそが、普遍的で人間的な価値観を国境を越えて共有できる大多数の人々だと僕は感じているのです。
僕は幸い(というか意図的に、だが)、10代から40代の今に至るまで、多くの国をビジネスも含め旅をして、そして多くの国籍の人間と友情を育む機会に恵まれた。


(世界的なサッカー選手だったや中田ヒデ氏とか作家で世界中を旅して周る友人などには遠く及ばないのはモチロンだ。。)

そこで言えるのは、マジョリティを形成する人々の人間的な本質はどこでも大きく変わらない、ということだ。


誰しもが平和を愛し、人に恋をし、夢を持ち、家族を作り、ささやかな記念日をお祝いして、毎日の生活を送っている。

もちろん、土地や文化的背景からの影響や個人が持つ個性の存在は否めない。
それが気質に現れる、というケースは無論ある。


アフリカの奥地やアマゾン川流域に暮らす人々とは接点を持った事が無いから、そういう人達の人間性を語る資格は僕には無い。

僕が言ってるのは、少なくとも近代化を果たして、共有する市場経済の中で生活している外国の人、ということだ。
そういう前提において「何々人だからこうだ」という良くあるキャラ付けやレッテル貼りほど当てにならない物は無い、というの
は事実だ。

例えば、ハワイに暮らすとハワイのローカルの人達の仕事がユルくて、仕事の質が当てにならない、とかいう話を聞く。
一瞬、「だよね!」とか思ってしまう。

ところが、それは彼らが「ユルくて」仕事が甘いのではなくて、「別の価値基準」を持っているから、だと言う事が出来る。


単純にハワイに暮らす「ある個人としての」日本人には「ユルく」見えてしまうだけかも知れない。

僕が同調して「ハワイアンはユルいよな〜」とか発言する理由は実は無かったりするのだ。


少なくとも、僕が接したハワイのプロフェッショナルはきっちり仕事をしていた。

ただ、集団が暮らす中で醸成されたスタンダードに差異が存在しているだけで、「人間性」に差異は無いと思っている。
ましてや、どこの国籍を持つからこういう人間だ、という決めつけなど出来る訳は無いと思っている。






僕には親友と言える韓国人がいる。
世界的に有名な韓国企業に勤めていたが、クリエティブな仕事がしたくてグローバルな広告会社のソウル支社に転職したような男だ。
彼は日本のポップカルチャーをこよなく愛し、日本文化へ深い敬意を隠そうとしない。


また数年前、自分の会社の国際会議が上海で開催されて、僕はそこで小グループで行うワークショップに参加した。
チームメンバーには、上海支社で働く、台湾人と香港人が含まれていた。


(チャイナ本土と台湾、香港は歴史的&政治的な尺度で見れば別の国家であり地域だ。)
ランチの時には、昼間から飲んじまえ、ってことで皆でワインのボトルを空けた。
当時日本では中国の領海侵犯が話題になっていたが、彼らはそんなことは台湾と中国の間では日常茶飯事だと笑っていた。

20代の中盤の頃に長期滞在したクアラルンプールでは、華僑の若手のビジネスマン達と仲良くなった。
夜の会食の際、少し遅れて僕がジョインすると、彼らはそれまで福建語で話していたのを瞬時に英語に切り替えた。

彼らにとって複数の言語を理解し話すのは生まれた時から当たり前のことだと言った。
福建語を話せない人間がグループにいれば、言葉を英語にするのは当然なことなのだ。

上海に拠点を持つクリエイティブディレクターは生粋の中国人だったが、自分の仕事が自国や世界を良くする事を心から信じて仕事に誇りを持っていた。
日本のクリエイターとコラボすることは価値がある事だが、彼らは教育レベルも高いのになぜ英語が苦手なのか、と真顔で聞いて来た。

彼らはニュースで見聞きするいわゆる中国人、台湾人、韓国人とは全く印象が異なっていた。

もちろん、国家間の政治レベルで多くのイシューが存在していることは事実だ。


強制慰安婦問題、領土問題は、典型的な政治イシューだ。

僕は日本の政治家には日本の国益を最優先して活動して欲しいと真に願っているし、期待している。


日本を貶めるような報道をするようなイデオロギーに凝り固まった報道機関が存在しているとしたら、それらを信用することはない。

また僕が出会った海外の友人達が、ごく一部の人達だということも事実だろう。

だからと言って、僕らがそれぞれの土地に住む個々人を政治やイデオロギー的な色眼鏡で見る事を前提にする必要はないのだ。

今は情報統制の時代ではないはずなのに、むしろ自分の目で物事を見て行こう、という空気が薄くなっている気がしている。


少なくともネットやマスメディアからの情報だけを見ていると、特定の団体、国民に対するレッテル張りが横行している気がしてならない。

「ノイジーマイノリティ」から発信された神話を信じる前に、自分の目でモノを見て、そして「サイレントマジョリティ」を形成する人々に実際に出会うことが必要だ。


そして彼らと直接の関係性を持つことが、きっと世の中を良くして行くはずだと、僕は信じている。



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