Koy's blog

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2015年4月16日木曜日

フランダースの犬は子供向けなのに、なぜハンパ無く悲劇なのだろう。


ふたりがこの世に生きていたのは短い間でしたが、ふたりがつくさねばならない義務はつくしました。どんな人にも獣にも恨みを持ったことがなく、きわめて素直でしたから、決して心に何のとがめることもなく、はればれしていました。(フランダースの犬:by Marie Louise de la Ramee)より


息子がベッドに入る時に、子供向けの世界名作ダイジェストみたいなヤツを読み聞かせるようにしている。


最近すっかり英語づいて来ている息子なので、がっつりと日本語という彼の母語で彼の脳みそを刺激してやろうと言う魂胆なのだ。


日本語では表意文字と表音文字が絶妙に入り交じる、という特殊な言語なので、特に子供の場合はうっかりするとシンプルな英語の方が楽になってしまう。

今回息子がリクエストしたのは、全集の中の「フランダースの犬」だった。





ちょっと前に僕のオヤジと一緒にアニメ版カルピス世界名作劇場のダイジェスト版を見たとか言っていた。

最後のネロとパトラッシュが昇天する際のエンジェル達がやさしく彼らを包み込むシーンが特に心に残ったようだった。

5歳の心にも、人が死んでしまうことがある事を何となく分かり始めたのかも知れない。

結末まで一気に僕に説明すると「はやく読んで」と促された。
知ってる話を何度も聞きたがるのは子供の特徴なのだ。

OK!と結構気合いを入れる。

会話文はそれぞれジェハンじいさん、ネロ、アロア(女の子)の声色を使い分けるという熱の入りようだ。

アニメの作品は僕も息子と同じ年頃にフジテレビで毎週欠かさずに見ていた。

今でも、ネロとパトラッシュの最後のシーンがテレビで流れると涙腺がゆるんでしまうくらいに好きな作品だった。

様々な声色を使いながら息子を喜ばせながら、最後の切なく悲しいシーンのくだりで、かすかな疑問が僕の頭をよぎった。


「なんで、こんなに悲劇過ぎるんだよ。子供向けがこれでいいのか?」みたいな。


僕は結末を充分に知りながら、どこかで「ネロ、お前は死ぬんじゃない。お前はなんて心が綺麗な少年だ。きっと君の描いた絵は優勝して、君は絵描きになれる。そして金持ちの娘アロアと結婚するんだ。そしてパトラッシュの銅像を立てるんだ!ネロ!」
とか応援したくなってしまっていた。

しかし、当然そんなことは起こらない。

ネロは、かすかな微笑みを浮かべながら、パトラッシュとともに餓えと寒さで教会で息絶える。

全く救いがないじゃないか!
何でみんな死んじゃうんだ!
そう言えばマッチ売りの少女とかもそうだったじゃないか!

この心の綺麗な少年はありとあらゆる苦難を経験しながら、最後はとうとうハッピーになるのでした、おしまい。

みたいな感じの方が、よっぽど子供に夢と希望と勇気を与えるはずじゃないのか。

そう、ディズニーのように。
ロード・オブ・ザ・リングのように。

「ネロ、可哀想だったね。でも、彼はどんなにつらい状況でも、負けずに耐えて、嘘もつかずに、キレイな心でいたから天国に行ったんだよ。」とかなんとか息子に説明した。

一方、内心では「おいおい、死んじゃったらダメじゃないか!天国に行くなんてキレイ事過ぎるだろ。
現世では貧乏で報われなかったけど、それで良し、
みたいな神話を信じたら、このリアルでタフな現代社会を渡って行けない人になっちゃうじゃないか!」
とか思っていた。

息子が寝息を立て始めて、まだ悶々としていた僕はベッドを抜け出てAmazonで「フランダースの犬」の原作をDLして改めて読む事にした。
青空文庫でタダで読める。感謝。


子供向けにダイジェストされた話なので、原作にはもっと深い内容が描かれているのではないかと思ったからだ。

原作は20分もかからずに一気に読める長さだった。

そして、子供向けの全集は優れたダイジェスト版だったと実感した。

ほとんど内容に変わりはなかった。

このイギリス人女流作家は、なぜベルギーのアントワープを舞台にした悲劇を書いたのだろう。

このストーリーにはどういう作者の思いと教訓が隠されているのだろうか。

この作品が書かれた頃のイギリスでは、産業革命があり、圧倒的な勢いで近代化が進んでいた。

このウィーダ(本名マリー・ルイーズ ド・ラ・ラメー)という作家は、鋭い洞察力で変貌する社会や体制を批判的に見るジャーナリスティックな一面を持った女性だったようだ。

この作品の主人公ネロはベルギー、アントワープが生んだ偉大なる画家ルーベンスの「キリストの昇天」と「十字架上のキリスト」を一目みたいと願っていた。

それが、最後の最後に教会で月の光に照らされた絵画を見る事で適うのだ。

この絵画は、本来金を払わなくては見る事が出来ないものだったので、毎日食べる事で精一杯のネロは見る事が出来なかったのだ。

画才がある少年ネロは、キリストが描かれた名画をお金がないという理由で見る事が出来ない。

本来、神とは信じる心に宿るもので、金がなければキリストの姿を拝めないというのは道理に反している。

彼と仲の良かった少女アロアのオヤジは金持ちのコゼツだ。

ネロが貧乏過ぎるので、自分の娘と会わせる事を拒絶する。
彼は近代資本主義の申し子みたいな感じに描かれる。

村人達も金持ち旦那のコゼツを拒絶出来ない。(ダジャレになってしまった。)

恐らく、この作家は資本を持つものが、資本主義時代の権力者になり、絶対視される世界の到来を予見し、そしてそれによって見失うものがあるのだ、と伝えたかったのではないかなどと大袈裟に考え始めてしまった。


コゼツの旦那は、自宅の風車が火事になったのを、ネロの逆恨みで彼が放火したのだと吹聴する。

それを村人達は「まさか、あのネロが」と密かに思いつつ、それを表立って否定出来ない。
彼らがミルクを売って歩くネロから冷徹に離れて行くシーンは理不尽極まりない。無情過ぎる。

しかし、それが持つ者と持たざる者の決定的な差なのだとこの作家は描く。

だから、そういった資本主義的なロジックの中で、
ネロが「よし、オイラはいっちょこのコゼツの旦那に取り入ってやろう。
彼からビジネスを学んで、大成してやろう。
画家になろうなんて甘っちょろい考えはクソ食らえだ。
そしてアロアと結婚しよう。
オレはリアルでタフな資本主義の世界を生き抜くのだ」
というピカレスク的なハッピーエンドになってしまっては作者のメッセージは伝わらない。

今回じっくり読んでみて分かったのは、決してネロは、「大成して金持ち」になることを否定はしていないということだ。

むしろ、自分の画才を信じて慎ましいけれど、大胆な夢を持っている。

「画家としての成功」がシアワセになる手段だと考えていて、「絵の仕事で大成して、周りをシアワセにしよう」という希望を持っている事が描かれている。

「さもなくば死ぬしか無い」みたいな幕末の浪人みたいな結構激しいセリフまで言わせている。

だから、作者は貧乏でも心がキレイでいれば成功しなくてもいいと伝えている訳ではない。

むしろ、逆で一心に自分を信じて、希望に満ちあふれ、清廉な心を持つものが報われない社会を痛烈に批判しているのだ。

ネロは理想に殉じた尊い存在として描かれる。
僕はここまで考えながら、吉田松陰を思い出してしまったくらいだ。

松蔭は実在の人物だが、理想に燃えるあまり、はた目には果てしなく要領が悪く見える人物だった。
挙げ句の果てに志し半ばで死罪となってしまう。

吉田松陰は幕末の世において、自らは何も成し遂げなかったのだ。

それでも、彼が理想に殉じたという事実は、多くの維新の志士達の心に火を付けた。

彼は自分の死のあと、大きなビジョンを残したのだ。

感銘を受けた多くの志士達がそのビジョンを共有して大きな維新という仕事をやり遂げたのだった。

強引過ぎるが、敢えて言う。
ネロもそうだった。(マジか!)

彼のような貧しくとも清廉潔白で清々しい少年が、絶望過ぎるシチュエーションで希望を失わずに自分を貫く姿は、読むものに感動を与える。

だから劇中の登場人物は、彼の死を受け入れられず、むしろネロよりも絶望してしまうのだ。

あまりにもドラマチック過ぎるので、残された者や読者の心には永遠にネロが生き続けることになるのだ。


ネロとパトラッシュの死は、人の心に存在しているはずの良心のメタファーだったのだ。


自分に嘘をついてまで、何かに(この作品の場合は「お金持ち・不運な身の上・冷たい世間」)に翻弄される必要は無い。
どんな時でも、人を欺く事はしない。
人から酷い仕打ちをされても、相手を憎まない。

目先の「銀貨」に捕われると自分が自分ではなくなってしまう。
自分の理想と希望を最後まで信じていたい。

自分が信じるものをまっさらな目で見ることが大切なのだ。

冒頭の引用のように、微笑みながら、晴れ晴れとしたした気持ちでこの世を去った少年と労働犬からこの社会の激変期に失ってはいけないものの尊さに人々は気が付くのだ。

そして、その意識は人々に伝播して行く。

ネロの死は決して無駄ではなかったんだ。

金持ちで資本家でネロを蔑み抜いたコゼツの旦那ですらネロとパトラッシュの死によって、忘れていたピュアな目と心を取り戻す。

初めて「フランダースの犬」のストーリーに接してから40年。

僕は、この物語を「儚い命の切ない悲劇の物語」だと思っていた。

そして、いくら夢や希望があっても、自らの運命に挑戦して行って苦難の先にdreams come trueな結末があるストーリーじゃなきゃダメじゃないかとすら考えていた。

それは間違っていた。

この物語は、自分の運命を力がある者に委ねなかった少年の強い物語だったのだ。

息子にはいつかこう伝えよう。

「昔読んだ、『フランダースの犬』。ネロは残念ながら天国に行っちゃったけど、清い心でいる事の大事さと、そういう心が報われる社会を作らなくてはいけないと教えてくれたんだよ」と。

(注)児童文学の専門家ではありませんので至らない点はご容赦を。悪しからず!

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