Koy's blog

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2015年1月30日金曜日

「オレはお前が諦めた全てだ」トヨタ ヴェルファイアのゴリラはアナタの心にいるヒーローだ。

友人の映像ディレクターからシェアされてきたCMが秀逸だった。
それはイケメンすぎるゴリラのドアップから始まった。


TOYOTA Vellfire
イケメン過ぎる。まさにヒーローだ!


なんでゴリラ?
とか。
何か上から目線で嫌だ、
とか。


日本には重箱の隅をつつく視聴者が結構いるのでこのCMも好き嫌いが別れるだろう。

そもそも、製品に関係ないじゃん。
みたいな。

いやいや、このCMは秀逸です。
あるターゲット層にはグサリと刺さるはずです。

一切製品の説明をしていません。

CMでそんなことをする必要はありません。

製品スペックを知りたければネットで検索すればすむことなのだ。

まさにターゲットであろう、30代40代サラリーマンで子持ちみたいな男にチャレンジを仕掛けて来ているのです。

男よ、取り戻せ、心躍るような熱い思いを!


社会人になって、結婚して、子供が産まれたアナタ。
会社では中間管理職として、部下、上司、顧客の間に挟まれ協調を強いられる毎日。
家では妻をねぎらい、子供の運動会では撮影のベストポジションを競い合うパパだ。
家族全員が乗れるミニバンを運転、週末は郊外のイオンモールでお買い物に出かけるのだ。


規律を重んじ、協調性を保ち、常識的に行動する事で他人に迷惑をかけない生活。


それが俺たちだ。

ちょっと待て。

もしかすると俺たちは心を躍らせる何かを失っているのではないか。

それは、「自由」だ。

それは、「個性」だ。

そして「冒険する心」だ。

ゴリラの姿をしているのは、アナタの心の奥底に潜む野生のメタファーだ。


当然、これがイケメンのモデルか俳優だったら、視聴者たる男達が共感することは出来ない。


キャスティングとしてはワイルドでイケメンなゴリラが正解なのだ。

人間は猿から進化したかもしれない。
しかし、進化の先で失った何かがあるのだ。

野生を取り戻せ!

とブラックヘアの方のゴリラは訴えて来ているのだ。

「オレは、お前が諦めた全てだ」


そう迫るこのゴリラはアナタにとってのヒーローなのだ。

そしてヤツはアナタの心の中にいるのだ。

マライア・キャリーもヒーローはアナタの中にいると歌っていたではないか。

お前が諦めてきたものは何だ?目を覚ませ、そしてもがけ、と挑戦してきているのだ。


それを意識の中で顕在化させる時。

「そうだ、オレは人生に諦めてはいけない」と男は思い返すのだ。

統制された社会の一員として身につけた責任、大切な家族、それらを捨てろ、と言っているのではない。


自由と個性ばかり主張し、家族に迷惑をかけまくる冒険野郎はカッコ悪い。

規律の中で自由を模索し、協調の中で個性を発見し、常識的生活の中で冒険に駆り立てる何かを見つける事。

二律背反する、矛盾するような価値を心の中に飼え、そして男らしくもがけ、あがけ、ということだ。


そうすれば、単調で常識的過ぎる自分の毎日に輝きを取り戻せるはずだ。
アナタは、秘めた野生を、心の中のヒーローを、ずっと諦めて来た何かを思い出す事が出来るであろうか?


日常の自分でいる事に疲れたら、このワイルドゴリラを思い出そう。


そして、毎日の生活に冒険心を取り戻すのだ。

ちなみに、残念ながらこのヴェルファイアは売れないかもしれない・・・・。


なぜなら、現実の社会では、購買の実権は奥さんが握り、旦那に野生を取り戻されたらたまったもんじゃない!、とか考えているかも知れないからだ。

そういう奥さんにお伝えしたい。


これは、いつものミニバンです。
お買い物にも小旅行にも便利ですよ。

今まで通り、旦那さんがドライバー兼荷物持ちですからご安心を!



2015年1月28日水曜日

真の意味でライフチェンジし続けるミラクルな男を紹介します。

前回、「ライフチェンジングうんたら」みたいなポストをしました。

あとで読み返してみたら「自分はライフチェンジングしました、あなたは?」みたいな若干鼻につく自分の「ドヤ顔」が浮かんでしまうような読後感になってしまった。


で、よくよく思い返してみると自分はマジで大した事が無いことに気が付く。


人生そのまんま「ライフチェンジング」。

言ってみれば生粋の「ライフチェンジャー」な男が身近にいることをすっかり忘れてしまっていたのだった。


本人の承諾もないまま、そのプロフィールを個人情報に気を付けながら書いてみたい。

米国は西海岸の大学を出た後、IT業界に就職。
何故かその後米国系の広告会社に転職。そこで僕と出会う。

そこで数年過ごした後に、彼はMBAを取りにヨーロッパのビジネススクールに旅立つ。


その後、フランス系企業とファイナンス系のジョイントベンチャーを東京で立ち上げる。


震災後、彼を一人残し妻の故郷ルーマニアに戻ってしまった家族を追いかけ、創業した会社を退社しルーマニアへ。


しばし、現地ローカルのよくわけの分からないサプリメントみたいなCMにアジア人モデルとして出演しながら充電する。


そして、ついにルーマニアの首都ブカレストで和風居酒屋をオープンさせてしまった。


なにこの脈絡の無さ?!

ライフチェンジし過ぎだろ!?


結果として和風居酒屋ですが、彼は当初僕に「今度オレうどん屋になるわ。ルーマニアで。」とか言っていたのである。

昨日まで、ファイナンシャル系のコンサルベンチャーを立ち上げ成功していた男が明日からルーマニアでうどん屋、というのはほとんど漫画みたいな展開だ。

しかし、彼は大真面目だったのだ。
言動に気負いが全くないので最初は冗談だと真剣に思っていた。

彼はライフチェンジを求めるような現状に辟易した大人達のヒーローだ。

僕らのヒーロー、

ザ・ライフチェンジャーだ。


これがブカレストにオープンさせた居酒屋のオープニングスタッフの面々。
皆いい顔してる。真ん中の和服男が今日の主人公だ。
このキャストで渡る世間のルーマニア公演をやると言われても、もはや僕が驚く事はないだろう。

もう20年以上の付き合いがあるので、全てとは言わないが、彼のキャラクターは良く知っているつもりだ。


彼は決して過去に生きない。

今、そこにある課題に真摯に向き合う男なのだ。
その課題に向き合う為に、質問をする。
知らない事を知らないと自覚して、自分に問いかけ、そして人にどんどん問いかけて行くのだ。

しかもガツガツした所が皆無だ。

野心の「や」の字も彼から見えた事は無い。

だから、人は彼の前では同じ様に真摯に彼に向き合うのだ。
誰しもが彼に協力したくなってしまう。
その帰結として、彼は必ずアイデアを見出す。
アイデアとはソリューションの事だ。

そこからが大事だ。
彼は、行動の人なのだ。

彼は一見すると行動派には見えない。

皆でわいわいBBQを楽しんでいる横で、繊細な鉛筆画を描いてしまうような芸術家だったりもするからだ。


しかし彼の行動力は半端ではない。


本人に聞いた訳ではないが、きっとこういうステップなはずだ。


  1. 目先の課題を明確に認識する。
  2. 対処出来る事と、知識が無いので対処出来ない要素を分ける。
  3. 知らない事は人に聞き、財源などのあらゆるリソースを集める。
  4. それらを直線的かつ戦略的に組み立てる。
  5. で、動く。
  6. 修正する
  7. も一回やってみる。
  8. 上手く行く。

一見してバリバリの行動派に見えて、実は億劫屋で、逡巡とする癖のある僕とは正反対なのである。

僕は彼のような真の行動派から刺激を貰う事で、なんとか尻に火をつけるタイプだ。


きっとブカレストの居酒屋も繁盛するだろう。
出来ればルーマニア美人が殺到するようなお店になってもらいたい。
和のクールジャパンをルーマニア中、東欧中に広めてもらいたい。


お店の名前はYUKI。日本のオフクロさんが作るヘルシーな和食がコンセプトだ。
ホームページリンク。


僕も近いうちに訪れる事になるだろう。

もちろん、春夏限定だ。
東欧の秋冬はハワイ在住の身としては過酷すぎるからだ。

そして、とても楽しみしている。
この次のライフチェンジは一体何なのだろう、かと。

いつも刺激をくれてありがとう!


2015年1月27日火曜日

ライフチェンジングな経験をする為に必要なこと。

ハワイに住んでいると、様々な価値観やパーソナリティや経験を持った人々と出会う。

それは日本人だけに限らない。メインランドから移住して来た人、スペイン人、ブラジル人、イタリア人、ドイツ人、クロアチア人(ヨーロピアンが多いな。。)

それぞれが持つバックグランドは異なるし、ハワイでやってる事も異なる。

50歳を過ぎてリタイアして大学生をやっている人、メイドインスペインのサンダルを売りに来た人、人生半ばでキャリアチェンジをした人、バルの共同経営者、カメラマン、ハワイに恋してしまって、とにかく移住した人、ハワイに興味が全く無かったけれど、旦那さんがこちらの航空会社のエンジニアの上級職として雇われたから、何も期待せずに来たドイツ人女性など。

まさにダイバーシティなのだが、ある共通項があることに気が付いた。

|ライフ チェンジング エキスペリエンス


彼らの多くが口に出していただけでなく、自分も使っている共通の言葉があったのだ。

それは’Life Changing Experience’

日本語で言えば、「人生を変えるような経験」と言う意味だ。

人がノマドのように目的を持って移動する米国の例に漏れず、ハワイという場所も人の流出入が普通にある場所だ。

元からハワイ生まれでもないのに、今ここに住んでいる人達というのは、何らかの人生を変えるような経験を経て(もしくは経験をする為に)、ハワイにやってくるのだ。

彼らが口々にいう「ライフチェンジングな経験」とは、日本語で書くような大袈裟で人生の一大決心のような響きは実はあまりない感じがする。

むしろ、「先日さ、偶然に品川駅で誰彼に逢ってさ〜」みたいな気軽な感じで皆口にする。

ただ「偶然」を「偶然」と終わらせず、能動的に何らかの意味を見出し、何か新しい行動のきっかけにしようという前向きで、軽快なチャレンジングな姿勢がそこには存在している。

だから同じハワイに住んでいるからと言って、同一の価値観を持っているはずだ、というような考えは意味をなさない。

皆、それぞれの考え方で、ハワイという場所にいるだけだ。

恐らく、昨日の事を忘れ去って、今日を生きる、そして今日よりも明日を見据えて、自分の頭と身体で行動する、みたいなメンタリティだけは共通なのだろう。

そして、そういうメンタリティがなければ「ライフチェンジング」な事はきっと起こらない。

|ホメオスタシスという「ここにとどまろう」という機能

なぜなら人は、何かのきっかけやサインがあっても、本能的にそこに留まろうとする「ホメオスタシス(恒常性)」という機能が働くからだ。
この言葉は聞いた事がある人も多いだろう。

何と言うか、人間の体温調節や水分量、傷を治す治癒力、みたいな、一定の場所に留まろうとする生物学的に本質的な作用で、人間の行動と思考をつかさどる脳みそも同様の作用をするらしい。

例えば何か環境を変えられるようなきっかけがあったとしても、多くの場合はそれに気が付かないか、気が付いたとしても、色々言い訳を考えて現状に留まろうとするような機能というか作用のことだ。


ライフチェンジングな経験、というのは種の保存本能から見たら、避けるべき悪しき問題なのかも知れない。

|意識することで、ライフチェンジングをものしよう

だから、そのきっかけを注意深く見つけたのなら、意識して行動に移さなくてはならないのだ。

自然に委ねていたら、ライフチェンジングな事はきっと起こらない。

仮にきっかけがあっても「ホメオスタシス」がしっかりワークしてくれるので、現状に自分をしっかり留めてしまうからだ。

日本人に限らず現状に不満を持って生きている人は多い。

そういう人達は一様に「決められたレールの上を走る人生はつまらない」と言う。

なので、毎日の生活に刺激を求めて、新しい趣味を探したり、新しいレストランに足を運んだり、どこかでパーティがあると聞くと参加したりする。


そう言う行動や経験は「ライフチェンジング」をもたらすきっかけになるかもしれない。

ただ、そうした行動をフェイスブックにアップするだけで終わってしまったらもったいない。


「ライフチェンジング」というのは、昨日まで自分がいた世界、感じていた価値観から、まるで別世界に飛んで行ってしまうような体験だ。

そういう自分を客観的に面白がるような体験のことだ。

他人から「こうあるべき姿」を期待されて、それをあたかも生まれついての自分だと思い込まされて生きるような人生、人の目を最優先する人生を、自分に取り戻す体験のことだと僕は思う。

だから、現状を突破するには、常にきっかけを探す事が重要だ。
その為には、自分の心の声を意識して聞く事だ。

そして「これだ!」と思ったら、アクションに次ぐアクションを起こす事が重要だ。

「アクションする」ということが、当たり前だと身体と脳みそに再プログラムすることが重要だ。

そうすることで、次第にアクションしていないことが普通の状態じゃないと脳みそが感じるからだ。

その「ホメオスなんちゃら」とかいう機能が「アクション」を起こしてる方が「常態」だと理解するからだ。

僕はこれは経験上、そう実感している。

そうすれば、ライフチェンジングなイベントなんて、世の中にいくらでも転がっている事が分かる。

そうなれば、自分の真の価値観を照らし合わせて、取捨選択することが可能となるのだ。

そして、その帰結として、誰のモノでもない自分の人生を生きることにつながるのだと僕は確信している。

人生を変えるきっかけは、そこかしこに存在しています。
必要なのは、そのきっかけを感じられる自分と、その後のアクションなんだと思ってます。








































2015年1月23日金曜日

僕を強くしてくれる存在。父親である事を喜ぼう。慈しもう。

そもそも、僕がブログを書こうと思ったきっかけの一つはサラリーマンを卒業して、子供との時間が圧倒的に増えた事。

子育てっていうのは、聞くのと実際にやるのとじゃあ全然違う。
まぁ、一言で言うと大変だ。


|僕は決してイクメンではない。


良く「育児参加するイクメン」、とか言うけれど、「参加」とかいうような生易しいもんじゃない。
子供が産声を上げた瞬間、いや、妻が妊娠した瞬間から「父親」という新たな役割が24時間7日間ずっと続くわけなんです。

「参加する、しない」とか言うような選択の自由はないんです。

だから、当初このブログのタイトルは「イクメンと呼ばないで」というのをサブタイトルに付けていた。

サラリーマンを辞めて、子供との時間を意識して増やし、父親としての自分をリブートしたかったからなのだが、イクメンという言葉から漂う妙にフェミニンでスマートな感じはどうしても好きになれなかった。


今でも思ってます。
イクメンなんていう言葉は糞食らえだ。

「父親」になる。
それが全てだ。

|父親である事を最高に賞賛するスライスオブライフ


父親になるっていうのは、泥臭いし、自分の器の大きさが露呈してしまうし、責任はあるし、ちょっと休みます、というわけには行かない。

それは母親も同じだ。


一方で、今までの人生で味わう事が出来なかったような最高の歓びをもたらすようなことでもある。


日本でもシャンプーから紅茶まで幅広く展開している世界企業ユニリーバがDove Menというブランドで制作したCMが泣ける。


こういうコンテンツのスタイルを「スライスオブライフ」(日常生活を切り取って見せる手法)というのですが、最高です。


古いステレオタイプの「父親像」ではなく、子供の感情に寄り添う今時の父親。

その生活の一コマ一コマを見事にコンテンツ化してパパをヒーローにしています。

リンクから見てみて下さい。



スーパーボールで流れるダヴフォーメンのCMへのリンク。元々は父の日にオンエアしたものの再編集。何が男を強くするのか、というコンセプトが直球過ぎる。

本当に涙が滲んで来て仕方なかった。

僕はこの動画を見たあと、ベッドですやすや寝ている自分の息子の寝顔を見に行った。


|何が男を強くするのか。



君が、初めてジャングルジムに登った時。
気が付いたら一番上まで行ってしまって、急に怖くなってパパを見下ろして言った「パパ。。」の不安げな声。

「大丈夫だよ、ゆっくり降りておいで。パパが下にいるから大丈夫だよ」
君は恐る恐る、それでもしっかりと確実に下に一歩一歩降りて来たね。

初めて浮き輪をつけて海水浴に行ったあの日。
君は、波に乗ることの楽しさを覚えた。
でも、びっくりしたよね。
突然大きな波が来て、浮き輪ごとひっくり返ってしまった時。

パパは、君を抱きかかえた。
君は、大いにむせて、一瞬泣きそうになった。

でも、その時パパは君の顔を見てわざと大笑いしたんだ。
そしたら君もつられて大笑いを始めたね。

そう、パパがついてるから大丈夫。

思い切って冒険していいんだよ。

何があったって君を守るから。

パパは君が生まれるまでは超自己中な男だった。

君が産まれても、生活を変えるつもりはなかったし、きっとそう出来ると思ってた。

赤ちゃんなんてどう対象していいか分からなかったし、ママやバアバに任しとけばなんとかなるだろう、とか思ってた。

そう、世の中のイクメンパパとは大違いだよ。


でもね、初めて小さな小さな生まれたばかりの君を抱き上げた時、パパの身体には電気が走ったような感動を覚えたんだ。

世の中の全てに感謝した。

君を生んでくれた君のママ。

産院の先生とナースの皆さん。

生まれる前に君のママと産院まで乗って行ったタクシーの運転手さん。

産まれた後、急に腹へって肉まんを買った産院前のコンビニの店員さん。
産院の角の交番にいるお巡りさん。

パパとママを生んでくれたジイジ、バアバや全てのご先祖様。


何かありとあらゆる人達に感謝したくなったんだ。


そしてもちろん君にも。
生まれて来てくれてありがとう。

君が僕を父親にしてくれた。

君が僕を強くしてくれる。


2015年1月21日水曜日

最盛期の日本のヒーローものを再生させたディズニーマジック。やっと「ベイマックス」観て来ました、な感想。

いつか息子と二人きりで映画に行きたかった。

その記念すべき初映画は「ベイマックス」(原題:Big Hero 6)でした。(公開からもう2ヶ月経ってます。はい。。)

5歳となり、一緒にポップコーンを食べながら、時に顔を見合わせて笑いながら、二時間近くも映画に集中出来る様になるなんて、オヤジとしては感慨深くて泣けて来ます。

これからも一緒に映画館に行こう!
オレもオヤジにそうやって映画館に連れて行ってもらって筋金入りの映画ファンになったのだよ。

しかし、このベイマックス。
いや、やはり原題の「Big Hero 6」が相応しい。


日本版タイトルとポスターには何か「ドラえもん」的なハートフルな解釈を無理くり入れ込んだような違和感を感じます。
(もちろん、後半で泣きましたが。。。ハワイのローカルの観客も笑いに笑い、泣きに泣いてました。後半は至る所で鼻水ジュルジュルの音が。。。)

これは、やはり「ヒーロー」モノです。
主人公が、兄の死を乗り越え、仲間と助け合い、そして敵に向かって行くような「葛藤」がきちんと描かれます。ヒーローズジャーニーです。
ハリウッド王道の映画文法に則っています。明確に。

血沸き肉踊る、な戦隊モノですよ、これ。

さて、この映画。


今まで、これ以上にあからさまな「日本Love」に満ちたハリウッド映画を見た事が無いです。

日本のキッズ向けコンテンツが全盛期だった「かつて」の頃のすべてが詰まっている。

元々はディズニーが買収したマーベルコミックで1年だけシリーズが続いたコミックが原作だ。
その原作は日本人と日本が舞台の「Otaku」ターゲットのものだった。
僕は読んだ事が無い。

それを、ディズニーがアニメ制作にあたって、マーベルに埋もれる作品からコンテンツ素材を探したことが映画化のきっかけらしい。

そもそも、主たる制作者の面々はこのコミックをキチンと読んだ事が無いと言っている。
「タイトルが気に入った」と。

だから、原作の趣きは完全に無視されているのだろう。僕も読んだ事が無いので分からない。

彼ら制作者は完全にオリジナルのロボットモノが作りたかったと言っている。
だから、既に世間に認知された原作は欲しくなかったのだ。

ついでに、日本のロボットモノからも影響は受けていない、みたいな発言もしている。

いや、きっとそれはジョークだろう。

なにせ、ディズニーには「ライオンキング」という前科がある。

あれは、あからさまな「ジャングル大帝」のパクリだったのだが、頑として彼らは認めなかった。
虫プロは「手塚も喜んでいるはずです」という生き馬の目を抜くハリウッドでは全く通用しないような、超日本的な大人過ぎる対応を見せ、全米のアニメファンから感動された(はず!)。

この「ベイマックス」はジョン・ラセター(初のフルCGアニメ、トイストーリーの監督と脚本を担当した最高のクリエイターの一人です。)という希代のアニメーターでありプロデューサーがディズニーの英知を結集させた優れた作品である。

彼らがどう「明確に」否定しようとも、僕はこの作品から彼らの日本アニメへの深い愛とレスペクトを感じてしまったのだ。「ありがとう!」と言わせてもらいます。

この作品はほとんど「(しつこいけど)かつての」日本のアニメやヒーローものに不可欠だった以下の要素をふんだんに取り入れている。

ロボットヒーローモノ(マジンガーZ、グレンダイザー)
おとぼけなロボットデザイン(タツノコプロ系のタイムボカンシリーズ)
男の子とロボットの友情(藤子F不二夫先生系。ドラえもんとかキテレツ)
戦隊モノ(チームで悪を倒す。ゴレンジャーからのパワーレンジャー)
話が勧善懲悪ではない(悪い敵にも理由がある系のストーリー)

今までも、ハリウッド映画で友情を描いた冒険もの(グーニーズとか)は一杯あったし、少年と人間ではない何かとの友情(ETとかショートサーキットとか)も確かにあった。


タランティーノのキルビルvol1も日本愛に満ちていたけれど、どちらかというと亜流と言うか、サブカルっぽい。

所が、このベイマックスでは、まさに日本的な情緒がストーリーのど真ん中を貫いているのです。


それも思いっきり、真っすぐに。何の躊躇もなく。

友情と助け合い。敵をも助ける。罪を憎んで人を憎まず。
何と、日本的なプロット!

まぁ、これが純粋日本のアニメだったら、ちょっとダメでひ弱な男の子が、ロボットと行動を共にする事で、成長するとかになったのかもしれないが、ベイマックスの主人公は「ひ弱」ではない。

そこは、「アメリカ的」と言えなくもない。。

それでも兄を亡くし途方に暮れ、日々意気消沈して過ごしている、という設定によって主人公がロボットの友人と他の仲間達によって再生していくという日本的な物語を違和感無く描いているのは見事だ。

これだけの要素をぶち込んでも、たんなるアニメオタク万歳にならず、きっちりヒーローものとして心が躍るような「ディズニー映画」になっているのは、エグゼクティブプロデューサー上述のジョン・ラセターの手腕だと僕は思っている。

この映画はかつて日本のヒーローものとアニメで育ったパパが自分の息子と観に行くには近年でベストな映画です。

ディズニーとピクサー、そしてかつて子供だった頃の僕に夢を与えてくれた日本製ロボットモノのテレビ番組に敬意を表して。。。息子と一緒にマジンガーZとかバビル二世を見たくなりました。

2015年1月11日日曜日

十二指腸潰瘍くらいで死んでたまるか!胃痛でお困りの皆さん、ピロリ菌駆除はお早めに!

夏目漱石の死因は「消化性潰瘍」だった。
胃潰瘍と十二指腸潰瘍をひっくるめてそう言うらしい。

僕が最初に十二指腸潰瘍だと診断されたのは、30歳になったばかりの夏だった。
激しい胃痛で目が覚める、という日が数日続き、ランチも取れないような激務の午後の会議では必ず激しい胃痛に悩まされていた。
それでも、勤務後の連夜に及ぶ大酒食らいの飲み会で、嘘の様に胃痛は消えていたので放っておいた。

それでもあの夏の日、朝からの胃痛はのたうち回る程のもので、会社と同じビルに入っているクリニックに転がり込んだのでした。

診察後、再検査が必要ということになり、別日に胃カメラをすることになった。


人生初の胃カメラだったが、担当してくれたナースがギャルだったので、ここで彼女と合コンの約束を取り付けたらオレはヒーローだとか思っていたら、かなり気が紛れたりしていた。
彼女に対してしゃべる自分の声もどことなく低音が響くようにしたりしてしまった。

ただ、実際に胃カメラを喉から食道につっこまれ、よだれをダラダラ出しながら、自らの胃の中をモニターで見るという生まれて初めての経験をしていたら、ギャルナースとの合コンなどということは忘れた。

めちゃめちゃに苦しいのと、初めて見る自分の内臓の綺麗なピンク色に感動してしまい、ひたすら目から涙を流していた。

診断結果は「十二指腸潰瘍」。

「しゅ、手術するんですか?!」と聞く間もなく、「もう、ほとんど治癒してるんで、薬で治しましょ」というクールなドクターの声に安堵しながらオフィスに戻った。ギャルナースはいつの間にか目の前から消えていた。

それから僕は10年以上も十二指腸潰瘍と付き合う事になった。

大体、春先や夏の終わり、冬の始めといった季節の変わり目に必ず痛くなる。
特に、朝の起き抜けがたまらない。
激痛だ。

それでも、牛乳を流し込んだりすると治まるので、なんとかなっていた。
それでも酷いときは、壁に手をついて、涼しい日でも冷や汗というか脂汗をダラダラ流すような苦痛に襲われるときも多かった。

薬局に駆け込んで、ガスター10を何回購入したか分からない。
何とかごまかしながら、それでも治まるとその苦しみはとっとと忘れてしまう。

それでも、その時はやってきた。

胃痛はほぼ10日以上続いていた。
そして、血便が出ていた。

僕はそれを前の日に飲み過ぎた赤ワインのせいだと思っていた。
たまにビーツの生ジュースを飲むとよくそうなっていたので、そのせいかもしれないとも思っていた。

心底、底抜けにバカだった。

朝から、顔の血の気が引いていたのを、僕は二日酔いだと思い、酒を抜く為にサウナにも入ったりした。
その日は、自宅でのクリスマスパーティーがあって、僕はホストだったのだ。
チキンを都合3羽も焼かなくてはならない、重要な責務を負っていたのだった。

無理だった。
唇は黄色くなり、ベッドから一歩も動けなくなった。
せっかく集まってくれた友人達をホスト抜きで乾杯させる羽目になった。

深夜。
皆が帰った後、激しい尿意を感じた僕は、ベッドからずり落ちて、這いつくばいながら、トイレへと向かった。
人間が不思議なのか、僕が底抜けにバカなのか、そういう非常事態でも、それが非常事態だという感覚がなかった。
ただ、オシッコがしたかっただけなのだ。

トイレに辿り着いた僕は、そこで激しい下血とともに気を失い文字通り倒れた。
遠いどこかで、後片付けをしていた妻の悲鳴が聞こえて来たが、どうすることも出来ない。
下半身が熱くなっているのは、きっと何かが漏れているのだ。

そこからは時間の感覚はない。
救急隊員の声、担ぎ出されている自分、救急車のサイレン、ストレッチャーの乗せられて外に出されたヒヤリとした空気の感覚、明るい緊急治療室、ドクターとナースのマスク、彼らの声。

「あなたね、重篤よ。もうね、輸血するから。奥さんにね、承諾もらうからね」

僕はまた気を失った。

後に、僕はドクターに聞いた。
「あの時、僕は死ぬ可能性があったんですか?」


「危なかったですね、回復して良かったです。」
とか言ってくれたような気がする。

もし倒れたのが、自宅ではなくてどこか別の場所だったら。
僕は酔うと何処からでも歩いて帰る癖があるので、どこか住宅街の人通りのない道路の片隅で息絶えていた、みたいのことがあっても不思議ではない。

10年以上もほったらかしにしていた十二指腸潰瘍の根本的な原因はピロリ菌の存在だった。

その後の入院による絶食による胃粘膜の回復とピロリ菌の駆除成功によって完全治癒させる事が出来た。

憎きピロリ菌。こいつを徹底駆除しなくてはダメだ。武田薬品のHPより。


日本人の40代以上の多くは潜在的にピロリ菌の保持者だと言われている。
下水道が完備されていない時代に幼少期を過ごした人は、要注意らしい。

要は、小学生の頃、町中にバキュームカーが我が物顔で走っていた思い出がある人はピロリ菌に侵されている可能性があるということだ。

僕の場合は、不摂生とストレスが強烈なカクテルとなって、ピロリ菌を活性化させてしまっていたらしい。

ピロリ菌さえ駆除に成功すれば、潰瘍から癌になるようなリスクも軽減できる。

僕は、以来3年以上が経つけれど、一度も胃痛に悩まされた事が無い。

もし、慢性の胃痛などに悩まされている人がいたら、すぐさまクリニックに行って欲しい。
そして、適切なピロリ菌駆除の処置を施していただきたい。

ピロリ菌を駆除しなくては、潰瘍の胃痛はずっとつきまとう。
胃痛から解放されることは歓びだし、何よりも僕の様にたかが胃痛、十二指腸潰瘍ごときで命を落としてしまいかもしれないリスクを回避出来るのだから。

2015年1月9日金曜日

海外に住みながら日本のエンタメコンテンツについて考えた。僕の結論はこうだ!

このブログは日本語で書いているので、読んでいただいている人のほとんどは日本語の出来る人に限られる。
そして日本人が圧倒的だろうと思います。

そういう皆さんは、日本の身近なコンテンツ、例えばテレビドラマ、アニメ、映画、そしてJpopに関してどのように感じているのだろうか?

嗜好が多様化して、「半沢直樹」みたいな爆発的なヒットが稀になってきているので、一つのコンテンツを見て聴いて面白いと感じる人もいれば、つまらないと感じている人もいるだろうし、評価は多様だろう。

なので、一般論としてその日本生まれのコンテンツの賛否をここで論評してもしょうがない。

ただ多くのコンテンツがこのブログのようにほぼ日本国内向けか、もしくは日本人向け、日本的な文脈を理解している人向けだ、ということには賛同いただけると思う。

何を当たり前のことを、と思うかも知れないが、こういう内向き指向はやはりガラパゴス的文化を生み出すことになっているのだと思う。

日本は人口が中途半端に大きいので、日本発のコンテンツのほとんどは日本市場に需要があり消費される。

今回(もう前回と言うべきか)の「紅白歌合戦」の圧倒的なツマラナさを見てしまい、内向きガラパゴス的コンテンツの総決算みたいな気がして、そしてそれはある種の危機感なのですが、そういう視点で今回のブログを書きます。


海外にも通用する一部のコンテンツ(川端康成がノーベル文学賞と穫ったりした国だし、村上春樹、引退してしまった宮崎駿は名前で勝負できるクリエイターだし、料理の鉄人とかサスケとか風雲たけし城とかのパッケージは海外でも一部人気)は無視して、もうモロにベタで主観的な話になります。

クールジャパンとか言われているものの代表はアニメだけれど、それすらも90年代をピークに輸出は減っているらしい。
肌感覚で言えば、僕はニッポンのアニメのピークは昭和50年代60年代、西暦で言えば、70年代後半から80年代だったと思う。

新聞のテレビ欄をアーカイブで見てみても、プライムタイムにアニメが堂々と何本もオンエアされている。
今の情報バラエティに占拠されてる状況とは全然違う。

今のアニメは極端に幼児用か、アダルト向けになってしまっている。
といって、今日書こうと思っているのは、アニメのことではないです。

今の日本には世界で通用するようなコンテンツやクリエイターが期待されている割に圧倒的に少ないのではないか、クールジャパンって一体世界の誰に向けての施策なのか、ということ。

日本市場が少子化、先細りと言えどもまだまだ大きいので、日々コンテンツを作っている人達はどうしても世界というより、国内ユーザーを見てしまうのだろう。

ハリウッドやディズニーのコンテンツは初めっから世界市場をターゲットにしている。


香港から始まり、今や上海に軸足を移している中華圏のショービズは、世界に広がる華僑圏をターゲットにしていて、シンガポールやマレーシア、タイはもとより、北米にも影響力を持っている。

韓国のKPOPのプロデューサーは、80年代90年代の日本の歌謡曲(チャゲアスやサザン)をレスペクトしていると言ってたけれど、明らかに今の米国のポップスからインスパイアを受けている。


韓国映画もその映画の文法と言われるような部分とテクニカルな技術(撮影や編集、効果音、エフェクトなど)は明らかにハリウッドからの影響だ。多くの韓国のクリエイターはかつては日本から学んでいたが、今はハリウッドからダイレクトに学んでいる。パクリではなく。いい意味で。

そういう手法はハリウッドが徹底的に普遍化させたハリウッドスタンダードなので、世界でも通用するようなコンテンツに仕上がっているのだ。

僕はいつも韓国映画を観て、素直に面白い!とか思ってしまう。そして日本映画を観て、幻滅してしまう。


そして韓国のコンテンツの多くは日本で消費され、その利益はアジア各国への韓国の文化奨励の為の投資に回されている。
そして、コンテンツは日本のトレンディドラマより遥かに高値で売買されている。

市場規模はアジアだけで160億円を越えると何かのレポートで読んだことがある。日本はその1/3らしい。

何が言いたいかと言うと、一部芸術性の高いコンテンツ以外の現代ショービジネスの世界では、制作される国内市場よりももっと広い商圏やもっと言えば世界市場を見据えている。だから世界的なトレンドや手法、ルールを活用する事が必須になっているのだ。

また、世界に通用するコンテンツ制作に関わる人種や出身地も様々だ。

日本では海外からスタッフを招集する、というのは非常にレアで、普通にスタッフに外国籍の人間がいるみたいなケースは在日コリアンの人達くらしかいないのではないか。

アメリカのABCで「Fresh Off The Boat」というシットコム(30分もののコメディ)が2月から始まる。
これは全米初と言っていい(正確には94年にアジア系コメディが1シリーズあったらしい。未見ですが)アジア人ファミリーが主役のコメディになる。



多分、East meets Westみたいな内容になるだろうが、それでも北米(米国・カナダ)にいる華僑の評価をあてにしてるはず。


古くは「ルーシーショー」、「奥様は魔女」みたいな白人家庭を舞台にしたものから始まり、80年代になってようやくコスビーショーという黒人家庭を舞台にしたシットコムが爆発的な人気を呼んだ。

そして、今回は台湾からの移民(タイトルは「移民船から降りたばかり」という意味)が主人公のコメディが始まる。

これはかつての黒人のように、アメリカの社会とくにエンタメ業界の中でアジアン(華僑系)の存在が無視出来なくなるくらいデカくなったことを意味していると思う。


このシーズンがコケるか、人気シリーズになるか分からないが、すごく興味がある。。。

そして、関わるスタッフやキャストは、アジア系を中心に多様なバッググランドを持つ人々で構成されている。


初回の脚本はイラン系のライターだし、主役の俳優は韓国系、そして話は台湾系移民の話。
それをシアトル出身の白人女性が監督をする。


日本人、日系人のキャストやスタッフの関与は情報を見る限り皆無だ。

こういうコメディでは必ず中心となる配役のエスニックな部分を面白おかしく演出に取り入れる事が多いので、
「アジア系あるある」が多く出て来るはずだ。

それは、食べ物だったり、習慣だったり、クリスマスよりも旧正月が大事、みたいなことだったりするのだろう。

ただ、今までのようにアジアンステレオタイプな眼鏡をかけて小太りでコンピューターと算数が得意でモテなさそうな脇役という感じではないはずだ。
なんせ、主役なんだから。

4大ネットワークの一つなので、米国のみならず北米全土、そして華僑の多い豪州には当然輸出されるだろうし、欧州でも見られるかもしれない。

そうやって、日本を除いたアジアン風味なコンテンツも英語という共通言語によって世界市場に浸透して行く。


きっと台湾やその他のアジアの国でもアフレコで観られるのだと思う。
でもって、日本ではリリースされないかもしれない。

日本にマーケットがあるとは思えないから。

日本が国内だけを見て、エンタメコンテンツを作っている間に、世界のクリエイター達は自分達のバックグランドをグローバルスタンダードにアジャストしながら、切磋琢磨しながら、才能が入り乱れながら、世界に通用するコンテンツが制作されリリースされて行く。


小粒で芸術的でサブカルな佳作、ではなく金を生むであろうビジネスとして。
日本のコンテンツも面白いよ、とか言ってくれる外国人の友人も多いが,そのトーンは日本人がインドのマハラジャ映画を見るような、少しサブカル的で、一種キワモノっぽい感じが否めない。
インドも国内市場が巨大なので、あくまでも国内向けなのものを外国人がニッチな趣味で見ているような感じだ。

例えば、世界を市場と見据えたコンテンツビジネスを最初から考えることは難しい相談なのだろうか。


国内向けのコンテンツを、日本で消費した後に世界に売り込むのではなくて、最初から世界市場を戦略的に考え当たり前のように制作するということが。

日本人には日本向けのコンテンツが大事だし、なぜわざわざ外国に媚びたようなコンテンツを作る必要があるのか、と言う意見もあるだろうが、昨年大ブームになった「アナと雪の女王」とかをみれば、それは詭弁だという事がわかる。


モチロン、そういう日本オンリーなコンテンツは今まで通り存在していても全く問題はないし、ニーズもあるだろう。

それを悪いと思っている訳ではない。

でも世界をマーケットにしたコンテンツがノーマルな状態でも出て来る環境にしないと日本のエンタメ界はヤバいのではと思っているだけだ。

能や歌舞伎などは、日本の古典芸能であり、今も息づいているエンタメだが、ポップカルチャー的なコンテンツはそろそろ国際市場を本気で見据えた、演出とキャスト、スタッフィングを考えて行く必要があるのではないだろうか?


AKBだけに任せていてはきっとダメだろう。

日本のエンタメコンテンツが世界で通用するクオリティにになれない障害は以下の3つだ。

1. 英語:

やはり、日本語というのはほぼ日本国内でしか通用しない言語なので、世界を見た時にその壁はかなり大きい。またクリエイター自身が英語でディールをするようなニーズが日本国内には当然ある訳が無い。
結果、国内外問わず才能で勝負出来る機会が圧倒的に少ないので、日本人だけで収まってしまう内容に落ち着く。

2. 単一の価値観:

本当はそんなことはないのだが、全ての視聴者は同じようなバックグランドとコンテキストを持っているだろうという前提。
それによって、ありもしないマス幻想の中でコンテンツが作られる。
むしろ価値観の多様性を前提とした上で、それをも凌駕するようなビッグアイデアが求められていると思う。
3. クリエイターを取り巻く劣悪な職場環境:

海外の一流のスタジオ、プロダクションで多くの日本人もプロとして働いているが、彼らは日本で日本の為に仕事をしたいとは思わないだろう。

あまりにもチャレンジの質に差がありすぎるし、日本のクリエイションの現場は僕が知る限りブラックでクリエイターを尊重しない環境が圧倒的だからだ。


当然、日本でクリエイターとして活躍したいと考える外国人も圧倒的に少ないだろう。


なんとかならないのだろうか。。。 

僕は、その答えを150年以上前の日本に求める。

歴史に学ぶのだ。大真面目に。

僕の結論は、維新後の日本の官僚組織、陸海軍組織、を作った時のように海外にバンバン若い志士たるクリエイターを送り込むことだと考えている。

幕末の状況は今の日本のエンタメコンテンツ業界と被って僕には見えてしまう。

あの頃も、武士を中心とした秩序を守るか、思い切って髷を切って、列強に飛び込んで学び存続を図るか、その二者択一を迫られていた。倒幕か佐幕か。

そうとう佐幕側の反対も強かったはずだ。(僕は江戸っ子なので、佐幕側の気持ちも分かる。)

それでも、日本は一度あっさり「自分達らしさ」を捨て去った。

そうすることで、日本は逆説的に「自分達らしさ」を守ったと僕は考える。
今、志しの高い若手で海外のクリエイターに影響を受けている人はメチャクチャに多い。
聞けば手を挙げる若手はきっと居るはずだ。

若手を意味不明な安月給でフロアADとかカメラマン助手のように弁当係みたいな奴隷として扱うのではなく、逆に投資の対象として、エンタメ企業はガンガン若手に海外に行かせるべきだ。

ちゃんと給料も払ってあげて、現地のスタジオやプロダクションからは給料いりません!みたいな感じでもいいではないか。

そうやって、グローバルで通用するコンテキストをスキルとして身につけた若手は必ず、日本のエンタメを独自性を持ちながら世界で通用するコンテンツに高められるクリエイターになるのじゃないかと思う。

そして、古いオジさん達には退場してもらうのが一番良い。

2015年1月4日日曜日

紅白歌合戦は誰の為にあるのだろうか?少なくとも僕向けではなかった。。

くの日本人の友人がフェイスブックなどで、日本の正月の様子を教えてくれる。

近年に無い寒さが日本列島を襲っていると聞くけれど、やはり日本人は日本の「お正月」を愛しているのだ。
そして、ハワイに住んでいる僕も、あのヒンヤリとして凛とするような元旦の街の静けさが大好きだ。

Tシャツに短パンという、まったく初詣に相応しくない格好でダウンタウンにある出雲大社さんで御詣りした後は、日本時間から2日遅れの「紅白歌合戦」を見た。

予備知識が無く、「もしかして日本の正月番組チックなものをやってるかも」、と日本語チャンネルをつけたら、やっていたのだった。


NHK公式サイトはこちら


日本に居る時には全く見ようともしない番組なのですが、やはり心の底では「日本の年末年始な感じ」を欲していたのかも知れない。

その番組では、ボーイズバンドの面々とよく分からない演出に溢れていて、信じられないくらいヘタクソな女性司会者が仕切っていた。

そして、元アイドルのベテラン歌手は大トリのパフォーマンスで音を外してしまっていた。

いや、別にジャニーズとか、女優の吉高由里子さんとか松田聖子さんをディスるつもりは全く無い。
嵐はチームプレイでそつなく司会をしていた。

櫻井君の安定感は半端ない。
吉高さんは女優としての実力はすごく高い人だと思う。
そして聖子ちゃんの歌は「裸足の季節」から好きだし「蒼いフォトグラフ」は聞くだけで胸がキュンとなってしまうくらいのファンなのだ。

それでも、僕個人としては「紅白歌合戦」は「なんじゃ、この番組は!」というような感じだった。


年末のお酒が入って、鍋を食べて、もう蕎麦食えないよ、みたいな満腹感の中でただテレビをつけているだけ、という伝統的な鑑賞の仕方をしないで、結構じっくり見てしまったのがいけなかったのだろうか?

演出は古いし、パフォーマンスで圧倒するような歌手は長渕剛とNYから中継だった神田沙也加とイディナ・メンゼルだけだった。


特にNYからの二人はプロとして完璧な歌いっぷりだった。

観ながら混乱したのは、一体誰をターゲットにしているのか分からない、ということだった。

明らかに「紅白歌合戦」は今はほとんど幻想となってしまった「お茶の間」を視聴者に想定している。

オジイちゃんオバアちゃんから、日頃はウチに居ないお父さんから孫までが一緒に観ているはず、という前提で演出しているのだろう。

ただ、今の70歳代のオジイちゃんオバアちゃんは若い頃にエルビスプレスリーやビートルズやストーンズに熱狂した人達だ。そういう人達はきっと本気で紅白の演出を良しとしているとは思えない。


「まぁ、紅白はこういうもんだよ。昔から」という感じなんだろう。

AKBも頑張ってパフォーマンスしていたけれど、コアのファンはいつものライブの方のほうが盛り上がるだろう。
サザンもそうだ。横浜アリーナからの中継がサプライズで入った、ということだが、本当のファンは横浜にいるし、WOWOWで中継を観ている。
それなのに、サザンが「紅白に出る」!」というニュースバリューが誰に向けてのものなのか全然分からない。

海外で普段日本の番組を見てない、というシチュエーションでこの番組を見てみると恐ろしくレベルの低いエンタメに見えてしまう。


海外の人は、ジャニーズをほとんど知らないし、ヘタクソな司会をしている女性が実は注目の新鋭女優だということを知らない。

低い声で愛の讃歌を歌った男性か女性か分からない歌手が日本では有名なご意見番だということを知らない。

色々思った事を書いてしまったが、日本でよくテレビを観ている層が楽しめる演出になっているのだ。

というか、NHKは番組単体で成立するような演出の文脈を持っていないか、あえて放棄したのだろう。
そしてそれが「紅白」として当たり前に受け入れられて視聴率40%越えという結果になっているのだろう。

それはそれで良し、と考えるべきなのかもしれないが、僕は多分もう二度と「紅白歌合戦」を観ないだろう。
確実に自分が「ターゲット」とされていない事を再認識したからだが、僕がNHKの制作サイドにいたらジレンマに陥ってしまうだろう。


圧倒的に歌で勝負出来る歌手を集めて、日本はジャニーズとAKBだけではないことを証明したりしたくなるかもしれない。
そういう事を書くと、「いやいや、あれは日本人が観て、はぁ、年末だな、と思えればいいんだよ」「あれは、一種の忘年会なんだよ。細川たかしもビール持って歌っていたじゃないか」
と言われてしまうかも知れない。


そもそも、オジイちゃんから赤ちゃんまでが勢揃いしている「お茶の間」でそれぞれが違う歌手を楽しめればいい、というのが紅白のコンセプトなんだから、その通りだ。


 それでも、「日本人なら、なぜこの演出で、このキャスティング」なのかわかるはず、というのは制作サイドの甘えだと僕は考える。
そして、多くの視聴者も、そういう NHKに甘いのだ。


日本の名だたるアーティストが大晦日に勢揃いして歌で人々を魅了する、には程遠い演出とパフォーマンスに思えてならないからだ。
緊張しまくったベテランである松田聖子に、脇で声援を送るこれまたベテランの和田アキ子の姿が映った。
松田聖子が神田沙也加の歌を中継で観てた時に涙ぐんだ姿には、僕もぐっときてしまったが、
最後の場面では日本的なのかもしれないが、アッコさんも聖子ちゃんもプロっぽくないと思ってしまった。

なんで年始早々、こんなことを考えたのだろうかと思ったら、それはアメリカで’Fresh off the boat’フレッシュ・オフ・ザ・ボートというアジア系が主人公のシチュエーションコメディが始まる事と頭の中でリンクしていることに気が付いた。

長いので、次回に続きます。