Koy's blog

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2015年7月7日火曜日

その日は突然に来る。準備は出来ているか?


賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ


有名なビスマルクの言葉だ。

僕は愚か者の代表選手なので、意識して他人の経験(歴史や書物)を頭に叩き入れようと努力している。

そしてそこからのラーニングをなんとか行動につなげようとしている。

それでも、「自身の体験」にまさる「学び」は無いな〜とか思う事が多い。

本は読んだ時だけ、ふむふむと共感し、感銘を受けるものの、恐らく得た知識の10%も身についていないのではないだろうか?

本をいくら読んでも、実際に行動しなくては身に付かないし、ただの乱読は時間の浪費だ、ということも最近分かって来た。

「愚者は基本的に経験から学ぶが、なんとか歴史(他人の経験)にも学ぶ事を意識しよう。」

みたいな感じで意識するしかない。

ところが、唯一自分の経験が活かされないカテゴリーがある。

それは「自分の死」だ。


自分が死んだら一巻の終わりだ。


つまり「死」というものは他人の経験からしか学べない代物なのだ。

しかし、自分の「死」をイメージするのは難しい。

きっと明日もある、とぼんやり思って日常を送っているからだ。

下血して意識を失い、ERに担ぎ込まれて輸血をして何とかサバイブしたような経験を持つ僕ですら、数年経ってしまうと、あの時ほど「自分の死」というものを意識しなくなる。

なんとなく、平均寿命か願わくばそれ以上の人生を全う出来るんじゃないか、という感じで生活している。





そんなのは幻想だ、

と、この若き外科医はこの自著で述べている。


ヒトの「死」は大抵突然に訪れる。


突然、何の前触れも無く、余命を宣告される。

日本でもトップレベルのがん・感染症センターの外科医として忙しく働く彼は、予期せぬ余命を告げられて、動揺し、運命を呪いながら最後を迎える老若男女と現場で接している。


毎日毎日だ。


日常的に人を看取っているのだ。
それも、医師として葛藤を抱えながら。

よく考えなくても一般人にとっては日常を超越した日々だと分かる。


「若造の外科医である自分がなぜ、『死』に関する著書を書こうとしたのか」


彼は自著でこう述べている。

「自分が医者としてのキャリアも浅く『達観』できないからこそ、いちいち傷つき思い悩んだからこそ、感じるものや見えるものがあったのではないかと思っています。」

この一文が彼の初めての著書である本書を説得力のある物にしていると僕は思う。

毎日毎日、人の死に向き合うなんていうのは、この平和な日本で恐らく彼のようながん病棟みたいな所で働く医師と看護師のみなさんくらいだ。

熟練の医師になれば、恐らくそういった現状を受け入れる訓練と言うか、慣れによって自分のメンタルを保つ事が出来るプロになってるはずだ。

彼はまだ8年目だからこそ、非常にピュアな思いで、患者さんの死に向き合わざるを得ないのだ。


そして、自分の経験を通じて、「死」を意識して欲しいと読者に訴えかける。



彼のメッセージはシンプルだ。


「人に死は必ず訪れる。

それも恐らく突然にだ。
だから、今出来る事は今しよう。
明日シアワセになるのではなく、今日シアワセになろう。
その為には少し「シアワセ」になる為のハードルを下げたっていいじゃないか」

と言う風に僕は受け取った。


そして「後悔するように生きろ」とも言う。

(その意味は是非著書で。。) 

最後に、僕は世の中に様々な職業があれど、医師と看護師ほど尊いものはないと感じている。

よく大病院は待ち時間3時間で診察時間が3分とか揶揄される。


しかし、それは仕方が無いのだ。

そういう大病院の多くは今この瞬間に「死」を迎えてしまうかもしれない患者を救おうと懸命な努力をし、
そして最大限の時間を使っている。

僕が緊急病棟に担ぎ込まれた時、そこはいわゆる「3時間と3分」な大病院だったが、そこの医師、看護師のチームワークと対処は見事だった。


(意識が薄れている中で、常に大声で声をかけてもらった。そのドクターに回復した後に会ったが、とても大声を出すような人には見えない紳士だった。それがドクターだ。)

感謝してもしきれない。


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