Koy's blog

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2015年12月17日木曜日

ロッキー、最後の物語が教えてくれた事。ネタバレ全くなし!


「ある偉大なボクサーがこう言った。 『大事なのはパンチの強さじゃない。 どんなに打たれても――前に進み続けることだ』アドニス:クリードより」


先日ロサンジェルスで行われた「スターウォーズ:フォースの覚醒」のプレミアム。

LA在住の友人が参加したらしい。
心底マジに羨ましい。。。。


僕は息子がモノ心ついた2歳くらいからスターウォーズのDVDをがっつり見せて英才教育をしてきた。


息子はピカチュウとか妖怪ウォッチよりも先にR2D2のファンになったのだ。




ディズニーがルーカスフィルムを買収して、「続編を作る」とほとんど奇跡な宣言して以来、息子とスターウォーズの新作を観に行くのが僕の夢となった。

その夢がまさに叶おうとしているのだ。
興奮して仕事など手に付くはずが無い。

そして、日本でも今週末の公開を前にしてファン達の興奮は沸点に達しようとしている。

やばすぎる。



しかし、ちょっと待って欲しい。



あなたが映画ファンなら、もう一つ忘れてはいけない「続編」がある。

奇しくもスターウォーズと同じ7作目。

最初の公開も1976年。
1年差でほとんど同じだ。

しかも、こちらの1作目はアカデミー賞の作品賞を穫っている、正真正銘の名作だ。



そう「クリード:チャンプを継ぐ男」だ。



公式HPはこちらっす。


「ロッキー」の敵役、そして後に親友となった男アポロのラストネームが「クリード」だ。

僕はロッキーファンを自称してるくせに、アポロのラストネームまでは知らなかった。


ロッキーのバルボアなら知っていたのに。




I know!


CM監督をしている友人に誘われ、
ワーナーブラザースの試写室でロッキーの最新作「クリード」を男二人仲良く堪能して来たのだ。

このブログではネタバレはしません。

ストーリーについては触れないので、観に行く予定の人は安心して欲しい。

ただ、「アポロが死んだ後に彼の愛人が産んでいた息子がロッキーと共にチャンプを目指す話」、とだけ書いておく。


所々にロッキーリスペクトなシーンがあって、往年のファンはジーンとするだろう。


シルベスター・スタローンもイタリアの種馬の見る影も無く、一人寂しく老後を送るロッキーを見事に演じていた。


とは言え若いファンの人にとっても、この作品だけでも物語に感情移入できる構成になっているのが、脚本の上手さだ。

この物語は、アポロの息子であるアドニスが自身の葛藤を乗り越え、そしてある「何か」を掴む、という映画なのだが、僕の興味は違う所に反応していた。



それは「そういや、みんな死んでるじゃんか」ということだった。



ロッキーというのはボクシングをモチーフにした「再生」の物語だ。

全てのエピソードに共通しているのは、「今の自分自身に問題があって、それを突破する為に過酷なトレーニングを自らに課す。そして、その苦しみを乗り越えることで自分自身をも乗り越え再生する」という物語だ。

簡単に言えば、


「今のままでは生きてても死んでるのと同じだ!現状を打破する為に、自ら行動し、そして試練を乗り越えれば、必ず生きているという実感を取り戻す事が出来るのだ!」

という今では神話になってしまったようなアメリカンドリームを追体験出来るというお話だ。

実際、アポロの息子である「アドニス君」はロッキーと出逢い、過酷なトレーニングをこなすことで、葛藤を乗り越え、本来の自分を取り戻して行く。

しかし、僕は「往年」のロッキーファンなので、どうしても若いアドニスよりも老人のロッキーの方に感情移入してしまう。

そうすると、映画をみる視点が変わってしまうのだ。

僕は、あるシーンで思わず泣きそうになった。


ロッキーが愛する妻であるエイドリアンの墓、そしてその横で眠る親友のポーリーの墓の前で一人老眼鏡で新聞を読み、日常の些細な出来事を語りかけるシーンがある。

そう、
ロッキーの周りで、ロッキーの活躍を心から応援していた人々は全て死んでしまっているのだ。

トレーナーだったミッキーも、宿敵&親友なアポロも今はいない。

ロッキーは独りぼっちになってしまっている。

もう、誰もこの世にいないのだ。


「再生」したらゾンビ映画になってしまう。

そこに現れたアポロの息子は、確かにロッキーの希望となる。


しかし、この物語で「再生」するのは既に「ロッキー」自身ではない。

チラシに書いてあるしネタバレではないので書く。


ロッキー自身も死に至る「病い」に冒されているのだ。

ロッキーは劇中で自身の病いとも闘う決意をするのだが、永遠の命を得る事などあり得ないことは明らかだ。

妻と親友の墓前で語るシーンはその象徴だ。
ロッキーもいずれ、その横で墓標に刻まれる存在だと言うことなのだ。

なんてこった。

僕にとって「再生」という希望のドラマを見せてくれるはずの「ロッキー」は近い将来消えて行く存在として描かれているのだ。


もうロッキーは「復活」はしないのだ。

ワーナーブラザースの試写室の堅い椅子で僕は固まってしまった。

小学生の頃に初めて観たエキサイティングな「ロッキー」とはまったく異なる「読後感」を今40代になって味わっている事にショックを受けたのだ。

映画としては今回で7作目だ。

ということは、ロッキーは都合上「7回」の再生を果たした事になる。


そうやって、シルベスター・スタローンは観客である僕らに7回も「希望」を感じさせてくれた。

今回できっと最後になるギリギリの「希望」だ。

どう考えても「死の病いに冒された」ロッキーがボクサーとして「再生」する物語を観る事は無い。


「クリード」としての続編があるかどうかは分からない。



しかし、今回のストーリーがロッキー・バルボアの最後の物語であることは間違いが無い。

試写の後、CM監督の友人との昼間の新橋で酒を飲んで、ひとしきり映画談義を楽しんだ。


そして、僕は自宅にトボトボと帰りながら、「ロッキーありがとう」とつぶやいた。

今回、大きな予算をかけられて、長編二作目にも関わらず大作映画を託された若手監督が描いたハリウッド
映画が僕に教えてくれたのは、「永遠に続く人生などない」、という事実だ。


ロッキーはその「人生」で7度再生した。

その都度、「強さとはパンチの強さではない。打たれても前に進み続ける事だ」と教えてくれたのだ。

そして、俺はどうなのだ?

俺は、何があろうとも前に進もうとしているか?

自身の再生の為に、何が問題で、試練で、そいつらを乗り越えようとチャレンジしているか?


ここ最近寒い日が続いていたので、怠けていた朝のランニングを再開した。


もちろん、iPhoneのヘッドフォンからはサバイバーのアイ・オブ・ザ・タイガーがリピート再生だ


そうだ。

走り続けよう。
自らに試練を課す事に臆病になるな。
試練は人が与えてくれるのではない、自ら課すのだ。
自分の弱さから目を背けるのはヤメよう。

生きてる実感は、現状の葛藤から目を背けず、チャレンジしたものだけが得る歓びなのだ。


人生というリングで闘い続ける為に、自分への挑戦を止めてはいけない。


人生は1回だけなのだ。

2015年11月10日火曜日

お客様は神様です。だから、タダでここまでやってね!は正しいか?

「お客様は神様です!」

そう言ったのは昭和の偉大なるエンターテナー、三波春夫さんだ。

初出したのは1961年、昭和36年だから僕は生まれてない。

時代は高度成長期に突入した頃だ。

三丁目の夕日の世界だ。

それ以来21世紀になっでも、ずっとこの「お客様が神様」であり続けているのが、今のニッポンなのだ。

公共の喫煙スペースで、片手に煙草、片手に携帯で若いサラリーマンが話している。
日本語はその文脈で相手との関係性が明確になるので、彼が同僚や上司ではなく、明らかに顧客と話しているのが分かる。

決して怒られている訳ではなさそうだ。
仕様や納期について結構な無理難題を依頼されてる感じだ。

見ていて気の毒になるほどへりくだっている。

「スミマセン」という言い方のバリエーションを彼は少なくとも100通りは持っているはずだ。

そう「クライアントは神様」なのだ。

日本ではまるで取り憑かれたように、コンビニの店員から大手製造業までが、神の祟りに触れないように過剰なサービスを提供し続けているように思える。

もの凄く少ない数の「神」からのクレームに戦慄し企業は「コンプライアンス」の名のもとで、1回オンエアしただけのCMを中止にする。(まぁ、中には当然そうなるべき下らないCMも多数ある。)

90年代の後半から00年代全般に渡って日本のビジネス界では「提案営業」「コンサル営業」とか言うモデルがもてはやされた。

モノが売れない時代なので、顧客企業に何か付加価値を提案しなくてはならない、みたいな強迫観念だった。



メーカーの場合、自社製品が売れる事が至上命題なので、その「提案」内容にプライスは付かないケースがほとんどだ。

結果として、「提案」は「タダ」と見なされるようになった。


目に見えないモノに対価を支払う価値はない、という感じになってしまった。


本来なら目に見えない「アイデア」を売っていそうな広告業界でも同様だった。
大手代理店はマスメディアを売る為に「アイデア」を無償で提供し、クリエイティブブティックは制作物での対価を得る為に「アイデア」を無償にした。

企画料、とかいう名目もあるにはあるが、クライアントの購買課から一番最初に攻撃されるのもこの項目だ。


結果、無くなってしまうか、あっても原価割れ(大概は人件費)してしまうケースがほとんどだ。


というか、そもそも提供している側も受けている側にも「提案された無形のアイデア」が有償であるという認識は薄かったし、今もそうだ。

「アイデア」や「アドバイス」はタダ、なのだ。
「神様」へのお供え物だ。

日本のモノ作りは確かにスゴいが、無形のアイデアやクリエイティブな発想そのものに価値がある、という認識をしなくては、クリエイティブクラスが活躍し本当の意味でイノベーティブなビジネスが展開される時代はやって来ないだろう。

とか思っていたら、それは日本だけの現象では無かった。

個人個人がプロでなくてはやって行けないシビアなビジネス社会のアメリカは、受けるサービスに対価を支払うのは当たり前の常識だ。

先進諸国が飲食店の「チップ」を止めるようになってきたのに、アメリカだけが頑としてチップ制度を固持している。


これは、雇い主が賃金を安く抑えようという策略と並んで、サービスに対価を払う、ということが明確化されたカルチャーを持っているからだろう。


一方で、クリエイティブなアイデアが求められる業界、特に広告会社(もはや広告という言葉は古い、クリエイティブなソリューションを提案する組織という感じ)では、クライアントからかなり無茶な要求をされるのは日本と同じだ。

アイデアの提案やその細かい仕様までタダで要求されることもしばしばだ。
アイデアプレゼンから実施まで行い、その結果を見て対価を支払うような場合もある。
結果主義と言うヤツだが、リザルトが芳しくなければ良くて原価だけ支払われてクビになる。

なので、そうなると儲けは無い。


そして、契約を盾に無理な要求をされるのは日常的なイベントだ。


特に最初にビジネスを獲得する時は、「タダ働き」は顕著になる。

もちろん、クライアントだけではなく、エージェンシー側も自分からそう動くケースも多いので、クライアントだけが、がめつい訳ではない。

通常、それはエージェンシー内では「投資」として決裁を受ける。
(上司にはダマてんで、やり手と「自称」する担当が勝手に社内外のリソースを動かしてクライアントに提供するケースもある。キレイ事言っててもしょうがないぜ!という感じだ。確かにそういう側面も現場ではあるが、理想的ではない。
特にそいつに翻弄された外部のフリーランスとかは、ピッチがコケた場合、結局ペイされないので、泣くしか無い。貸し借り、義理人情の世界になって行く。)


そういう風潮にNOと言ったのはズル・アルファ・キロというアニメキャラみたいな名前のカナダにあるクリエイティブエージェンシーだ。


このビデオでは、客である人間があらゆる業種(建築家、絵のフレーム屋、街のダイナー、フィットネスジムのパーソナルトレーナーなど)に出向き、あらゆるプロフェッショナルのアドバイスやサービスを受ける際に、最初はただで提案してくれと要求する。

当然、答えは「NO」だ。

彼らはプロであり、対価が支払われて初めてサービスを提供する。
メシを先ず先に食べて、ウマかったら払う、という提案は当然だが、店のオヤジから一蹴される。

しかし、そんなムリがまかり通っているのが「クリエイティブ業界」だとこのビデオは主張する。





もちろん、一食数百円のランチであれば「マズ!」と思えば二度と行かなければいいし、きっとその店は潰れる。
確かに、大きなプロジェクトで失敗すれば、担当者のクビが飛ぶ。
外部のパートナー選びは大変な労力を肉体的にも精神的にも強いられる事になるだろう。


しかし「無形のアイデア」にこそ対価を支払うという認識はとても大事だ。

今、多くのクリエイター(広告やデザイン業界だけに限らない。クリエイティブなマーケターも含む)達は疲弊している。

例えば、今やコピーライティングは広告会社だけの専売特許ではないが、「一文字数円」とかいうようなコンテンツの質やアイデアよりも文字数でプライシングされているのは、プロとして切ない現象だ。


有形のアウトプットにしか対価が支払われない文化が、もしかすると日本にイノベーションを起こすかも知れないクリエイター達のモチベーションを削いでいるのだ。



そうでないと、結局「物理的な尺度で計測可能なモノ」を前提にしたアイデアしか出て来なくなってしまうと思うからだ。


ちなみに、「お客様は神様です」と言った三波春夫氏の真意は「お客至上主義」ということではなかった。

「自分が演者であるとき、目の前にいるお客様に対し、あたかも神前であるかのように澄み切った心で臨む」ということだった。

プロとしての心情を語った優れた名言だったのだ。

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2015年10月23日金曜日

「シリコンバレー式 自分を変える最強の食事」を読んで。

理想の健康的な体型が手に入ったら。

きっと毎日が素晴らしいものになるだろう。
病気とも無縁になるだろう。
異性からモテモテになるかもしれない。
気に入った服を着られるようになるかもしれない。
伴侶からキレイになった、カッコ良くなった、見違えた、と言われて嬉しい気分になるだろう。

ハワイに住んでいると、メチャクチャ「ふくよか」な人々が大勢いるので、日本人は華奢に見える。
それでも多くの日本人はダイエットに夢中だ。

人は、そうやって1クール、3ヶ月おきにメディアを通してやってくる「OXダイエット」ブームに踊らされる。

ついでに言うと、僕も腹の出た中年オヤジにはなりたくないので、納得のいった新しいダイエットはトライしてみるタチだ。
気が付くとメディアに踊らされている人間の一人だ。


とは言え、人の細胞や遺伝子は固有に近いので、同じモノを食べて飲んでも、消化し代謝したあとのカラダの反応は異なる。
食べても痩せる人と普通に過ごしているのに太ってしまう人がいる。

何よりもダイエットに大事なのは、自分のカラダと向き合う事だ。
他の誰かに有効だったものが、自分にも有効とは限らない。 

だから流行に踊らされず、自分にベストな食材や摂取のタイミングを知る為にじっくり観察する方が、ダイエットには得策だ。

この本の著者が提唱する「完全無欠のダイエット」も究極のメッセージは、「自分のカラダと食材の相性を知る」ことに尽きる。

自分が目指したい体型や、何をもって「健康」とするのか。
そういう目的無しに「ダイエット戦略」はあり得ない。

やみくもに、「バナナ」とか「納豆」とかの「これだけダイエット」走るのは、メーカーと小売りが儲かるだけで、何のベネフィットもあなたにもたらす事は無い。



帯が大袈裟!!
内容は非常に真摯なもので、一読には値するが。


書は肥満で不健康なギークなIT起業の成功者が、自らのダイエットに15年と30万ドルをかけて、とうとう発見した「完全無欠のダイエット」の記録だ。


彼は自分がトライしたあらゆるダイエットを理論、科学的な知見でまとめている。

著者はアメリカ人なので、日本人におなじみの食材は出て来ないし、日本人にとっては著者が推奨する食材が手に入らないケースもあるだろう。

もっと言うと、少しでも最新のダイエットに知識がある人にとっては、あまり新しい発見はないかもしれない。

炭水化物の摂取を減らし、中鎖脂肪酸を多く摂取することで脂肪の燃焼を増やす。
一日18時間のファスティングをする。

そういう話だ。

ただ、ユニークなのはファスティング中のツラさを緩和する為に、そしてエネルギーが充満した状態である為に彼が考案したアイデアがあることだ。

それが、「完全無欠のバターコーヒー」だ。

コーヒーにグラスフェッド(牧草飼育)の牛から取れたバターを溶かし込む。
それをファスティング中(朝)に飲む。

はっきり言って、そのバターを探すのは少し困難かも知れない。
ハイエンドな輸入食品を扱うスーパーでも置いてなかった。
Amazonでは普通のサイズで2,000円以上もした。

その代替として有効なのが、ココナッツミルクと中鎖脂肪酸オイル(ココナッツオイルもそうだし、日清もMCTオイルを販売している)だ。
これなら入手に困る事は無いし、比較的廉価だ。

そもそも、僕が本書の購入のきっかけになったのは、「空腹時の筋トレが最も筋肉量を増やす」というにわかには信じられない目次を読んだからだ。

空腹時はカタボリック優勢、といって要は脂肪より先に筋肉を分解してしまうので、空腹時の筋トレはある種のタブーだと思っているからだ。

購入後、まずそのページから読んでみたが、残念ながら新しい気づきは無かった。
書いてある事に納得出来なかったのだ。

最初がそうだったので、全体を読み始めてもどこかで眉にツバをつけて読み進めてしまったかもしれない。

この本を取り上げたブログを書きながら乗り切れてないのはそういう理由だ。

とは言え、そういう本でも、必ず何らかの発見はあるのも事実だ。

僕にとっては、この「バターコーヒー」だった、と言う訳なのだ。


朝食抜きというのは、もう十年も続けている習慣だ(自分にとってはその方がカラダが軽く快調だったからだ。気分によっては、食べるときもあるし、国内旅行に行けば、かならず和定食をがっつり食べる)。

取りあえず、この「バターコーヒー」をトライしてみようと思う。
もし、本当に今よりも午前中のパフォーマンスが変わったらという期待を込めて。

著書に対してフェアである為に、以下はAmazonから内容に関してのページを貼っておきます。

この中にいくつか興味を引かれる項目があれば、読んで見る価値はあるだろう。
(出典:Amazon.co.jp)

【内容より】
・朝、「ヨーグルト」を食べると太る
・IQは「食べ物」で変わる
・空腹になる食べ方、ならない食べ方
・「腹が空っぽ」のときがいちばん筋肉がつく
・炭水化物は「夜」に食べたほうがいい
・脂肪を食べると痩せる
・「カロリー制限」では痩せられない
・低炭水化物ダイエットは「カビ」を減らすから効く
・「空腹ホルモン」をハックする
・あなたの体を「解毒マシン」にする
・脳は「脂肪」でできている
・炭水化物をカットすると、うまく眠れなくなる
・「冷や飯」が腸内の善玉菌を育てる
・果物が「集中力とエネルギー」を奪う
・パンを「一切れ」食べると、時間差で悪影響が出る
・同じものでも「食べる時間」で毒になる
・パフォーマンスを最大化する「ベストの朝食」とは?
・カフェインが脳を守る
・「腸内細菌」を飢えさせると、脂肪が燃える
・体内の「痩せ型」細菌にえさをやる
・栄養は調理しだいで変幻自在
……など


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2015年10月19日月曜日

憧れだったヒーローの年齢を自分が越えた時。

誰だって才能を持っている。
それを発見するまで、いかに行動するかが大事なんだ。
(by 希代のフィルムメイカー、ジョージ・ルーカス)

Everybody has a talent, it's just a matter of moving around until you've discovered what it is.
by George Lucas


40代後半、というのは微妙な年代だ。


最近ちょっと近くの文字が読みづらくなったな、とか思っても、まだカラダ的な衰えを強烈に感じる年齢でもない。

年齢と言うのは、もの凄く相対的なものだ。

少年だった頃に、想像も出来ないくらいにオッサンだったような年齢に達しても、普段の生活で自分で実感する機会はそう多くない。
(若手とカラオケとかに行くと世代間ギャップは感じるが。。)


同年代の友人とかを見ても、お世辞とか錯覚ではなくて、実感として「(20代から)変わってない・・・。」とかマジに思う。

もちろん、「相対的」なので、20代の友人達からみたら、きっとオッサンはオッサンなんだろう。

あくまでも「主観的」に、自分が思っていたようなジジイになっていない。

ジジイの感覚がない、というのはいいニュースに思える。

まだ夢見る青年のようなモラトリアムな感覚が忘れられずに、それが行動にも出てしまうことがある。



何となく、不確かだけど、でも明るい未来が待っている、みたいな「無責任」な楽観的な思考だ。


バブル期に10代を過ごしたのも、そういう思考を潜在的に持っている理由でもあるだろう。

世の中ではアンチエイジが話題になり、40代でも生活臭のしない若々しい俳優や女優、タレントが人気だ。


きっと、それは良い事だ。

それでも、最近の僕は考えてしまう。
たまには、加齢をネガティブに考えて自分のケツに火をつけてみよう、というのが今回のブログコンセプトだ。

下の数字。。

22
38
27

33
36

つまり、こういう事だ。



22歳の時にジョブスはAppleを創業した。


38歳の時、オフクロ世代のヒーロー、石原裕次郎は「太陽にほえろ」の「ボス」だった。


SMAPの香取慎吾クンが今38歳だ。
彼は才能あるタレントだが、石原裕次郎と同じ存在感でボスを演じられるとは思えない。

27歳の秋元康はおニャン子クラブをプロデュースした。

今の業界で27歳はまだヒヨッコ扱いされる。
いかに秋元氏に才能があったとは言え、当時の業界はまだまだ若かった。



そして、僕にとってのスーパーヒーローはスピルバーグとルーカスだ。


33歳でジョージ・ルーカスはスターウォーズを世に出した。

36歳の時、既にハリウッドで成功者だったスティーブン・スピルバーグは世界興行歴代1位(当時)、SF映画の金字塔となる「E.T.」を公開した。


ジョーズの時は何と29歳だった!
80年代の映画少年にとっては永遠のヒーローだ。
Credit: businessinsider.com


この二人が映画界に登場した70年代。

そしてハリウッド映画界はそのイベントを基点に、全く変わってしまった。
業界のあり方を変えて、後に続く若い才能にとってのスタンダードになってしまった。

彼らは20代〜30代だったのだ。

僕は軽いショックを受ける。


当時10代だった僕にとっては彼らは憧れで、ずっと追いかける存在だった。

僕にとってスーパーヒーローは常に年上だった。

彼らから、強烈なインスピレーションをもらってきた。
人生の中のちょっとしたつまづき、悩ましい出来事。

それらを切り抜ける為に彼らから、多くの気づき、そして助けをもらっていた。

そして、気が付けば僕はとっくに彼らが何かを成し遂げた年齢を越えててしまったのだ。



このテーマには大きなインスピレーションが二つある。


一つは、

「若者よ、特に20代30代達よ、古いオールドスクールな秩序に気遣いなんか一切必要ない!
先駆者や反逆者は常に自分達で『基準』を創り出して来たのだ」
ということ。

そして、もう一つは

「中年よ、焦るんだ!いつまでも自分が若いと思うな。もうお前はとっくにスーパースターがスーパースターになり得た年齢を超えているのだ。今、アクションするんだ。」
という感じだ。


ある著名なアメリカのコラムニストは言った。


アメリカ人にとって「米国大統領」はそのまま「父性」の代名詞だと。


大統領とは常に自分より年上の存在であったのだ。


そして、自分の年齢より若い46歳の「ビル・クリントン」が大統領となり宣誓をした時の感慨深さをコラムに書いていた。


人は誰しも歳を取る。



毎日の暮らしの中で「突然に衰える」ということは、滅多に無い。

だから、自分が歳を取って、いつか衰え、そしてこの世からいなくなる、ということをきっとギリギリまで気が付かない。


いや、気が付きたくないのだ。


精神的にも、肉体的にも「若くあろう」というのは、正否で言えばきっと正しい。


しょぼくれて、辛気くさいことをほざいて周りからヒンシュクを買うのはダサい。


若々しいことは、きっと無条件に良い事なのだ。

マクドナルドのレイ・クロックやKFCのカーネル・サンダースが晩年に近い頃に創業し、そして成功したという話は、中高年に感銘を与える。

まだまだ、オレは、ワタシは若い。まだまだこれからだと思える。

しかし、それを一服の清涼剤のように感じるだけでは、どうしようもない。


それは神話だからだ。

彼らだって、わざわざ年取ってから何かをしようと行動していた訳ではないだろう。


人生は有限だ。


確かに何かをするのに、年齢も関係ないし、遅過ぎる、ということは決して無い。

それでも、もし自分がまだ「若い」と感じていて「時の有限性」に気が付かないのであれば、自分のケツに火をつけるべきだ。

自分の人生を確信を持って生きる為に、行動するのはきっと「今」だ。



敢えて言おう。

あなたがもし40歳を越えているのなら、あなたはあなたが思うほど、年取ってはいないが、若くもないんだ。

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2015年10月9日金曜日

イクメンではない、父親になるのだ。

「やめてくれ。君が何をどう言おうが知ったこっちゃ無い。君が犯罪を犯したなんて信じない、ずっとだ。僕は君を良く知っている。約束する。君をここから助け出す」
ジョン・ブレナン(映画スリーデイズより)

"Shut up...I don't care what you say or how you say it, I don't believe you did it, and I never will.  I know who you are.  And I promise this will not be your life." 
    - John Brennan (The Next Three Days)



やっぱりイクメンと呼ばないで。。



世界的なロックバンドのボーカリストが、子供が産まれたのをきっかけにバンドを休業し子供との時間を増やす事にした。


そういうMr. BIGのエリック・マーティンのインタビューを読んで、メチャクチャ単純に影響を受けた僕は会社を辞めて子供と過ごす時間をマックスにしようと決めた。


なのだが、「イクメン」と言う言葉は
好きではない。

それでも、ママ友みたいな人達から「イクメンですね」とか言われると、結構気分が良くなってしまう自分がいる。

それは自分より若くて素敵なママ達から声をかけられて嬉しいからで、決して「イクメン」という称号が嬉しい訳ではない。

僕は「イクメン」ではなく「父親」でありたいとずっと思い続けているだけなのだ。


女性誌をはじめとしたメディアは、見た目がオシャレでカッコ良くて、育児分担に積極的に参加して、妻の誕生日にはサプライズなイベントを忘れません、みたいな男を「イクメンの鏡」みたく讃える。

きっとそれは幻想だ。

雑誌は理想と幻想が売り物だ。

子育てと言うのは、実際は泣き笑いアリの泥臭くて人間臭い世界だ。

雑誌の中のニコパチ(ニコッと微笑んでパチっと写真を撮られる)の世界だけではないのが子育てだ。

何よりも、そういうメディアは「父性」とは何か、「父親とはかくあるべし」みたいなコトは一切伝えようとはしない。


そもそも今の日本で「父親」のロールモデルをみつけるのはスゴく難しい。



日本では「父性」というものが崩壊して久しいからだ。


この国は戦後、古い家長制度に変わる新しい父親のモデルを作ろうとしなかったし、今も無い。



男達も探そうとして来なかった。

高度成長期に世の父親達は「疑似家族」である「会社」に捕われの身となってしまい、育児を明確に放棄したのだ。

結局、21世紀の今でも「父性」が存在しない日本という社会を形成している。

メディアでは、よく「理想の父親像」とかの特集をしているが、単に面白い芸人か、ドラマでカッコいい父親を演じた人がトップにランキングされているだけだ。

きっと最近結婚した福山雅治氏に子供が産まれたら、彼がランキングのトップに躍り出るだろう。

「イクメン」という言葉には、「ママ業を積極的に分担してくれる、理解あるカッコいいパパ」というニュアンスが強い。

ある女性誌が命名したと言われているから、女性目線なのは仕方が無い。


問題なのは、男親の側も「父親」の役割を認識しないまま、子育てに参画するので、気が付くと「オッパイの無いもう一人のママ」みたいな役割を演じてしまうことがあることだ。

世の中にはシングルペアレントの人も多いので、一律な正解は無いと思うが、出来ればママもパパも分担するのが望ましいに決まってる。

男性が育児をするのは、正しい選択だ。

モラルとか人として親として、とかより以前に片親だけでの育児はものスゴい大変だからだ。

昭和時代からつい最近まで「育児」を担って来たのは、多くの場合「母親」なので、いざ男が育児参加をしようとすると、先輩である女性達から指南を受ける事が必須だ。

僕も、子供が激泣きしてどうしても泣き止まない時、「なんでオレにはオッパイがないんだ!」とか思ったりし
た。

激泣きする赤ん坊はほとんどの場合、オッパイを含ませると嘘のように泣き止むケースが多いからだ。

このままでは、一生二軍で出番の無いような一軍をアシストするだけの選手みたいな気分で育児をしなくてはならない。

ママと同じになろうとしても無理だ。

そうだ、オレは「二軍に甘んじる二番目のママ」ではない「一番目の父親」なのだ。

父親として一軍に上がらなければならないのだ。


ハリウッド映画には「父性」丸出しな映画が多い。


日本では「父性」とは何か、を見つけるのは難しい。
アメリカ(ハリウッド映画)にはまだ残っている気がする。

「スリーデイズ」のラッセル・クロウは、家族を信じて、世間を敵に回し、果ては命を張って(冤罪と信じている)妻を脱獄までさせてしまう男を演じた。

7人の子供を抱えるシングルファーザーで農夫なメルギブソンが、イギリス軍相手に闘いまくる映画ザ・パトリオット。

リーアム・ニーソンは映画「96時間」で家族を救う無敵な男になっていた。





いずれも「父性の塊が炸裂」するような映画ばかりだ。

(現実のアメリカ社会は古くからの家族のカタチと、シングルペアレント、両親とも同性とか日本よりも多様な家族のカタチがある。
しかも、上に挙げた映画の俳優は全てアメリカ人ではない。オージーやアイリッシュだ。
トム・クルーズやブラピがパパを演じても「父性」炸裂感はない。
それでもアメリカ社会には「父性」が普遍的な価値として存在していると感じている。)

父親が活躍する映画における共通のテーマは「守る為には攻めるのだ」ということだ。



「父性」というのをウィキペディアでみれば「子供に社会性を持つように促す父親に期待される資質」とか書いてある。

それは、確かにそうなのだろう。

ただ、結局「父性」には「家族を守る」という前提がある気がする。

ハリウッド映画みたいな一種のファンタジーから「父性」のインスピレーションを得るのは馬鹿げて聞こえるかも知れない。

極論?
その通りだ。

とは言え、ハリウッド映画は人々の普遍的な価値観をベースにストーリーが生産される。

という事は、上記のような映画の内容は「父性」はなんであるか、という共通認識によって描かれる。

少なくとも、アメリカ文化においては。

そして日本では共通認識としての父性は残念ながら崩壊してしまっている。

守る為に攻める、その姿を子供に見せる事が「父親」の役割なのだ。


攻める相手は、テロリストや敵国だけではない。

日々の理不尽な出来事だったり、社会や会社に対してかも知れない。

子供が学校で何かに心が傷付けられてしまって帰宅した時に、優しく無条件に包み込むのが母親なら、父親はそれにどう対応し対抗するのかを教えるのだ。

それが「社会性」を子供に身につけさせることを「期待」される「父性」なんだと僕は思う。


世の育児をしてるパパの皆さん。


「これが父親だ!」という分かりやすい答えはきっとない。

それでも、求めればきっと自分なりの解はある。

今まで通り、積極的に育児に取り組んで行こう。


そうして、何か悩ましい事が家族に起こった時、その時こそ「オレはコイツを身を張って守って行くのだ」と思い起こそう。

普段は、二番目のママよろしく子供の母親のサポートに徹するのだ。

いざ、何かあった時に「守る為に攻め闘う」自分を常にイメージしながら。

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2015年9月14日月曜日

「脱東京」こそ東京在住者が読むべき本だ。

未曾有の豪雨が北関東を襲い、鬼怒川の堤防が決壊した週末。

街を洪水が襲う。

そのニュース映像はまるで、2011年3月のあの「震災」直後の津波を彷彿とさせる恐ろしい映像だった。
被災された方々の一日も早い復興を祈るばかりです。



僕は、あの「震災」の直後、家族を九州は福岡に疎開させた。

色々な風評が出回る中で、後悔するよりはマシだ、と海外旅行の為に貯めていた預金をフルに使い果たして、博多に2週間家族を滞在させた。

僕は当時サラリーマンで、会社から指示されたのは一週間の自宅待機だけだった。

なので、途中で一人で東京に戻ったのだ。

羽田に到着したら雨が降っていて、この雨にも放射能がたっぷり含まれているんだろうか、と憂鬱な気分になったのを今でも憶えている。

あの時に、僕は気付いたのだ。

「東京」に居なくても「仕事」は出来る、と。


本心では、沖縄とかに行きたかった。

しかし、あの強烈な「津波」のニュース映像を見てしまった後だ。

なんとなく「沖縄」は遊びに行くみたいで、不謹慎な感じがしてしまったのだった。

今思えば、別に「沖縄」でも良かったし、コストはほとんど変わらないか、安く上げる事も出来た。

当時、友人家族が東京から福岡に移住していた。

ある教育関係のベンチャーを博多で起業していたので、拠り所はあったのだが、ステイ先は、普通にホテルを取った。

空港から博多の駅までのアクセスは快適にあっという間だった。

駅では高校生が東日本震災の為の募金活動をしている以外は、普通の日常がそこにあった。

コンビニには普通にペットボトルの水が売られていた。

福岡入りしたついでに、その友人ファミリーの自宅に遊びに行った。


彼らはモチロン震災に関して相当な心配をしてくれていたけれど、僕が感銘を受けたのは別の所にあった。



彼らのライフスタイルはまるでカリフォルニアの「それ」みたいだった。

車で10分のオフィスで働き、程よい距離感に自然に溢れていて、ナイスなビーチが点在している。

リビングコストも東京より遥かに安い。

食べ物も異常なウマさと安さだ。

何と言うか、「ちゃんとした人間らしい」生活がそこにあったのだ。

都会と自然の絶妙なバランスがそこには存在していて、彼らは今の生活は全くの「ストレスフリー」だと言っていたし、顔つきもそれを証明していた。

もう、「東京」には戻れないし、戻りたく無い、とまで言っていた。


東京にいなくても仕事は出来る。


それまでも薄々感じていたのだが、福岡での「疎開」生活でも普通に「仕事」が出来てしまったのだ。


まさに「ネット社会&テクノロジー」の恩恵だ。

福岡と東京で時差がある訳ではないので、電話とメールを駆使すればオンタイムで仕事が進んでしまう。


Skypeであれば、複数の人と同時に会議も出来てしまう。


東京にオフィスなんていらない、のである。


それでも、「東京のビジネスパーソン達」というのは真面目だ。


早くオフィスに戻り、一日も早く「あの日常」に戻る事が暗黙の期待値や空気として存在していた。

満員電車に揺られ、「オフィス」に物理的に縛られる生活に戻ることを多くの人が望んでいるかのようだった。

福岡から電話をした東京の取引先の人も早くオフィスに戻って仕事をしたい、と言っていた。


「マジかよ!」とか僕は正直思ってしまった。


思えば、あのタイミングが多くの東京生活者のライフスタイルを変える一種の分岐点だった気がする。

都市部、とりわけ東京に生活する人達が、自由に自分で働く場所や生活する場所を決める事が出来るようになる。


そういう「来るかも知れない」未来に向けた「分岐点」だったのだ。

そして僕の目からすれば、その分岐点は多くの日本人(東京人)は、そのレールを未来ではなく過去へ戻る方向に向けてしまったようだった。



人間はあのようなとてつもない災害を目の当たりにしても、いや、むしろだからこそ、「日常に戻ろう」とするのだと悟ったのだ。

しかし、僕はそうならなかった。


あの「疎開」以来、日常に戻ることへの違和感が心の中に満ちあふれてしまった。

生活を変える大きなきっかけをどう行動に結びつけるのか、その考えから抜け出せなくなってしまった。

結局、その年の暮れの自分の病気というさらなるきっかけもあって、僕はハワイへの移住という決意にいたったのだった。



時は流れて、僕は2年過ごしたハワイから東京に戻って来た。

理由は一ヶ月前のブログに書いた。

言ってみれば、肩書きは「元・脱東京」野郎ということになる。

だから友人が書いた新しいこの著書を読むのには正直勇気が必要だった。


なぜなら、僕は「脱」じゃなくて「東京リターン組」、だからだ。 


人生の冒険野郎でありたい僕にとっては、この著書を読んでまた「脱東京」したくなったらどうすんのよ、みたいな心配もあった。

しかも一方で、今では「東京万歳!」みたいに思っている。


ハワイはモチロン楽園だが、食事にチップがいらない便利さとか、街行く女性の美しさとか、公共交通機関の果てしない利便性とか、
マーケットが圧倒的に大きいとかいうのは、一度「脱東京」した僕の目には、なんというか東京もキラキラしているのだ。









「脱東京」という言葉にはストレートでかつチャレンジングな響きがある。


著書の中では14人のクリエイティブクラスのビジネスパーソンが登場する。


それぞれが、各地域で自分らしいライフスタイルを確立したり、もしくは模索を続けている。

中には僕も個人的に知っている友人もいる。

彼らがどのように、自らのビジネスを創造し、地域に貢献し、そして「東京」という「中央集権型の偉大なる幻想」から脱却し、自分らしい理想的なライフスタイルを送っているのか。


そのストーリーが主にインタビューを軸に展開される。

そして、その内容は刺激的だ。

きっと多くの人は著書のタイトルや目次を見て、「特別な人々の物語」だと思ってしまうかも知れない。

しかし、僕は「東京を愛するリターン組」代表(いつからだよ!)として思うのだ。



この著書のメッセージは実は別の所にある。

それはむしろ、東京に住んでいる人達に向けてのエールだと捉える事が可能だ。


東京で生活し、今の生活にハンパない閉塞感を感じているにもかかわらず、現状から抜け出せないジレンマを抱えた人にこそ、この本書は大きな示唆を与えてくれるのだ。

この本書を読めば分かるが、著者が言いたい事は「東京を出て、地方に住もう」という単純な地域活性支援な話ではない。

単純に書いてしまえば、


「思考停止をヤメて、常識を疑ってみよう。自分の頭で考え、行動してみよう。そして、会社や行政に依存することをヤメてみよう」

という事だ。

(地域移住が成功する為のスキルの一つとして『依存をしないこと』も後半に明記されている)。

東京でも、日本でも、世界でも住みたい所に住める自由は既にそこに存在している。

あなたが選択する意思があれば、それは実現するのだ。
と言ってるのだ。

タイトルは「脱東京」だが、それは「脱洗脳」に近いとすら僕は思う。


ただ「脱東京」の方が、コンセプトが伝わりやすい。



そういう発想の中では、東京ですら「いち地域」だ。


僕は再び東京に「居住」することを選択したわけだが、かつてのような、「会社組織=給料」に依存する生活をチョイスした訳ではない。

東京という「地域」がもっと魅力的になるには「アンチコーポレーション」というか、「大企業(メジャー)至上主義」な「中央集権的」なカルチャーに対して疑問を持つ事が必須だと考えている。

大企業の存在は否定しないし、僕もその仕組みの中で社会人の大半を過ごして来た。

(恩恵も得た。さまさまです。感謝!)


かつて、大手商社や家電メーカーの本社が大阪にあった時のような、地域分散型経済社会の復権も望んでいる。


ドモホルンリンクルはずっと九州の企業であって欲しいし、ジャパネットタカタは六本木に来るべきじゃなかったし、楽天のようなIT企業が二子玉川みたいなセレブな東京郊外じゃなくて、東北とか八ヶ岳みたいな地域に広大なキャンパスを形成し、雇用をクリエイトする事が出来ていたら、もっとクールな尊敬を勝ち取っていたはず、とかも思っている。



つまり、マインドの話なのだ。



組織や行政、誰か他人(夫婦ですら)に依存して生きて行く人生ではなく、自分が自分の人生に何を望むのかを知る事。
自分が望むライフスタイルを実現させる為には、少し頭を使う事。
常識を疑う事。
環境の変化に気付く事。
そしてアクションをすること。


そういうメッセージを僕は著書からゲットした。

僕は、「脱東京」マインドを持った「東京地域人」として、この都市で暮らして行く。


何よりも、この場所で生まれ育った、愛する故郷でもある。
僕には江戸っ子の血が流れている。


あ、でもあと数年後に福岡移住とか言っていたら、ごめんなさい。


人生は先がわからないから面白いんです。

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