Koy's blog

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2015年10月9日金曜日

イクメンではない、父親になるのだ。

「やめてくれ。君が何をどう言おうが知ったこっちゃ無い。君が犯罪を犯したなんて信じない、ずっとだ。僕は君を良く知っている。約束する。君をここから助け出す」
ジョン・ブレナン(映画スリーデイズより)

"Shut up...I don't care what you say or how you say it, I don't believe you did it, and I never will.  I know who you are.  And I promise this will not be your life." 
    - John Brennan (The Next Three Days)



やっぱりイクメンと呼ばないで。。



世界的なロックバンドのボーカリストが、子供が産まれたのをきっかけにバンドを休業し子供との時間を増やす事にした。


そういうMr. BIGのエリック・マーティンのインタビューを読んで、メチャクチャ単純に影響を受けた僕は会社を辞めて子供と過ごす時間をマックスにしようと決めた。


なのだが、「イクメン」と言う言葉は
好きではない。

それでも、ママ友みたいな人達から「イクメンですね」とか言われると、結構気分が良くなってしまう自分がいる。

それは自分より若くて素敵なママ達から声をかけられて嬉しいからで、決して「イクメン」という称号が嬉しい訳ではない。

僕は「イクメン」ではなく「父親」でありたいとずっと思い続けているだけなのだ。


女性誌をはじめとしたメディアは、見た目がオシャレでカッコ良くて、育児分担に積極的に参加して、妻の誕生日にはサプライズなイベントを忘れません、みたいな男を「イクメンの鏡」みたく讃える。

きっとそれは幻想だ。

雑誌は理想と幻想が売り物だ。

子育てと言うのは、実際は泣き笑いアリの泥臭くて人間臭い世界だ。

雑誌の中のニコパチ(ニコッと微笑んでパチっと写真を撮られる)の世界だけではないのが子育てだ。

何よりも、そういうメディアは「父性」とは何か、「父親とはかくあるべし」みたいなコトは一切伝えようとはしない。


そもそも今の日本で「父親」のロールモデルをみつけるのはスゴく難しい。



日本では「父性」というものが崩壊して久しいからだ。


この国は戦後、古い家長制度に変わる新しい父親のモデルを作ろうとしなかったし、今も無い。



男達も探そうとして来なかった。

高度成長期に世の父親達は「疑似家族」である「会社」に捕われの身となってしまい、育児を明確に放棄したのだ。

結局、21世紀の今でも「父性」が存在しない日本という社会を形成している。

メディアでは、よく「理想の父親像」とかの特集をしているが、単に面白い芸人か、ドラマでカッコいい父親を演じた人がトップにランキングされているだけだ。

きっと最近結婚した福山雅治氏に子供が産まれたら、彼がランキングのトップに躍り出るだろう。

「イクメン」という言葉には、「ママ業を積極的に分担してくれる、理解あるカッコいいパパ」というニュアンスが強い。

ある女性誌が命名したと言われているから、女性目線なのは仕方が無い。


問題なのは、男親の側も「父親」の役割を認識しないまま、子育てに参画するので、気が付くと「オッパイの無いもう一人のママ」みたいな役割を演じてしまうことがあることだ。

世の中にはシングルペアレントの人も多いので、一律な正解は無いと思うが、出来ればママもパパも分担するのが望ましいに決まってる。

男性が育児をするのは、正しい選択だ。

モラルとか人として親として、とかより以前に片親だけでの育児はものスゴい大変だからだ。

昭和時代からつい最近まで「育児」を担って来たのは、多くの場合「母親」なので、いざ男が育児参加をしようとすると、先輩である女性達から指南を受ける事が必須だ。

僕も、子供が激泣きしてどうしても泣き止まない時、「なんでオレにはオッパイがないんだ!」とか思ったりし
た。

激泣きする赤ん坊はほとんどの場合、オッパイを含ませると嘘のように泣き止むケースが多いからだ。

このままでは、一生二軍で出番の無いような一軍をアシストするだけの選手みたいな気分で育児をしなくてはならない。

ママと同じになろうとしても無理だ。

そうだ、オレは「二軍に甘んじる二番目のママ」ではない「一番目の父親」なのだ。

父親として一軍に上がらなければならないのだ。


ハリウッド映画には「父性」丸出しな映画が多い。


日本では「父性」とは何か、を見つけるのは難しい。
アメリカ(ハリウッド映画)にはまだ残っている気がする。

「スリーデイズ」のラッセル・クロウは、家族を信じて、世間を敵に回し、果ては命を張って(冤罪と信じている)妻を脱獄までさせてしまう男を演じた。

7人の子供を抱えるシングルファーザーで農夫なメルギブソンが、イギリス軍相手に闘いまくる映画ザ・パトリオット。

リーアム・ニーソンは映画「96時間」で家族を救う無敵な男になっていた。





いずれも「父性の塊が炸裂」するような映画ばかりだ。

(現実のアメリカ社会は古くからの家族のカタチと、シングルペアレント、両親とも同性とか日本よりも多様な家族のカタチがある。
しかも、上に挙げた映画の俳優は全てアメリカ人ではない。オージーやアイリッシュだ。
トム・クルーズやブラピがパパを演じても「父性」炸裂感はない。
それでもアメリカ社会には「父性」が普遍的な価値として存在していると感じている。)

父親が活躍する映画における共通のテーマは「守る為には攻めるのだ」ということだ。



「父性」というのをウィキペディアでみれば「子供に社会性を持つように促す父親に期待される資質」とか書いてある。

それは、確かにそうなのだろう。

ただ、結局「父性」には「家族を守る」という前提がある気がする。

ハリウッド映画みたいな一種のファンタジーから「父性」のインスピレーションを得るのは馬鹿げて聞こえるかも知れない。

極論?
その通りだ。

とは言え、ハリウッド映画は人々の普遍的な価値観をベースにストーリーが生産される。

という事は、上記のような映画の内容は「父性」はなんであるか、という共通認識によって描かれる。

少なくとも、アメリカ文化においては。

そして日本では共通認識としての父性は残念ながら崩壊してしまっている。

守る為に攻める、その姿を子供に見せる事が「父親」の役割なのだ。


攻める相手は、テロリストや敵国だけではない。

日々の理不尽な出来事だったり、社会や会社に対してかも知れない。

子供が学校で何かに心が傷付けられてしまって帰宅した時に、優しく無条件に包み込むのが母親なら、父親はそれにどう対応し対抗するのかを教えるのだ。

それが「社会性」を子供に身につけさせることを「期待」される「父性」なんだと僕は思う。


世の育児をしてるパパの皆さん。


「これが父親だ!」という分かりやすい答えはきっとない。

それでも、求めればきっと自分なりの解はある。

今まで通り、積極的に育児に取り組んで行こう。


そうして、何か悩ましい事が家族に起こった時、その時こそ「オレはコイツを身を張って守って行くのだ」と思い起こそう。

普段は、二番目のママよろしく子供の母親のサポートに徹するのだ。

いざ、何かあった時に「守る為に攻め闘う」自分を常にイメージしながら。

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