私たちは年齢を重ねることを嘆いていた。
それは、私たちから冷静さを奪った。
まるで映画のようだった。
まるで歌のようだった。
私たちは若かった。
We were sad of getting old
It made us restless
It was just like a movie
It was just like a song
When we were young
ミレニアム世代最高の歌姫 アデル (when we were young より)
私事で恐縮です。
先日47歳になった。
ここで「素敵な50代目指して、ますます充実してま〜す(ハート)!」みたいにキラキラに書きたいが、結構無理がある。
若くもないが、年寄りでもないという中途半端な、まさしく中年ドストライクになってしまった、という思いがリアルだ。
誕生日の明け方に夢を見た。
あまりにもリアルだったので、起きた後もその感触が抜けずに、もしかしてマジだったのかも!とアセった。
前歯の横の小さい歯がグラグラになって、数日も持たないぞこれは、みたいなリアルな感じだった。
なんで、そんな夢を見たのかというと、数日前に実際の歯を抜いていたからだった。
それも2本も。
場所は前歯近辺、ではなくて奥歯だった。
もともと20年も前に治療して、かなり複雑な処置をしてブリッジにするみたいな治療をしていたのだが、とうとう寿命が尽きたのだった。
ブリッジにしていたせいで、左右の歯に負担がかかって限界を突破していたのだった。
ドクターから「何か力仕事してますか?」みたいことを言われたのだが、僕はデスクワークが主体なので、「多分フリーウェイトで気合い入れすぎて力んだせいじゃないでしょうか?」みたいなことを言った。
でも、きっと原因は夜中の激しい歯ぎしりだ。
レントゲンを見せてもらったら、奥歯の歯根が歯茎の中でポッキリ折れていた。
おまけに、歯周病みたいなのを併発していたので、これは抜きましょう、ということになったのだった。
乳歯から生え変わって、僕の人生のほぼ大半を共に過ごした、左の奥歯達、二人。
切なかった。
抜いた後に、その亡骸を見せてもらったのだが、もはや歯と言えるような姿ではなかった。
なんというか、ボロボロで無残で可哀想だった。
よく頑張った。今まで本当にありがとう。。。
ナースの女性に「どうされます?持ち帰られますか?」とか聞かれたので、
麻酔が効いて脱脂綿のつまった口で「ヒヒヘ、ヒョブン、ヒヘクラハイ」というのが精一杯だった。
「一生、自分の歯で、健康に!」みたいなどこかで見た歯科医のポスターのコピーを思い出してしまい、ヘコんだのだった。
僕のイメージにあるジイさん、バアさんたちは皆入れ歯だった。
年を取ると歯が無くなるのだ、というのが脳みそにしっかり刷り込まれている。
もちろん、今はインプラント技術があるんだからそんなの気にするな、と言われるかもしれない。
無論僕もそんなことは分かってるのだ。
というか、僕の口の中には既に3本ものインプラントが埋まっているのだ。
しかし、それはスポーツをしていた時のアクシデントで歯を吹き飛ばしてしまった結果だったので、なんとなく「男の勲章」みたいな気分で誇らしかったのだ。
今回のは、完全に寿命を全うさせてしまったという事実がデカイ。
そういう気分だったので、これからはどんどん歯が減っていくのだ、という恐怖心がヘンテコな夢を見せたんだと思う。
そういうわけで、40年も一緒に過ごした奥歯たちに別れを告げて、iPhoneで80年代の洋楽を聴きながら帰途に着いたのだった。
この楽曲をリアルタイムで聴いていた時にはまさか47歳で奥歯が抜けるとは思わなかったな、とかをボンヤリ考えながら、
あの頃はどんな気持ちでこの曲を聴いていたのだろう?とかを考えた。
昔は良かった、とか頭の片隅で思ってるのかも知れない。
僕は仕事をする時に、好きな音楽をガンガンにかける。
気がつくとほとんどが80年代のポップスに寄っているのだ。
雨の日は気分が上がるようにロック、晴れた日はグロリア・エステファンみたく日によって違うが大抵80sだ。
あの頃のピュアでパワフルで無鉄砲で、未来しか見えなかった頃の気持ちをどこかで求めているんだろうと思う。
人にはそれぞれ「アンセム」みたいな応援歌があると思うのだが、僕の場合は80年代のポップス全体だ。
仕事上使っている屋号もブログタイトルも、あの頃のポップミュージックデュオの名前から拝借している。
麻酔で何も感じない奥歯のあたりを意識しながら、「俺はもしかして過去に生きてるんじゃないのか?」とか思ってしまったのだ。
女性と比較して男は過去に固執するという。
一種のセンチメンタリズムなのだろう。
「俺は年取るのがホントはすごい嫌なんじゃないだろうか?」
「嫌に決まってんだろ」
「何?オッさんになるのを肯定しないでどうする!」
「そうだ、現実には今を生きてるのだ」
「っていうか、80年代のポップスを聴くのと今を生きるのとで何の関連性があるんだよ」
みたいな感じで逡巡としてしまったのだが、結論はこうだった。
「俺は、80年代のポップスを聴きながら過去を生きているのだ」
最近、70年〜80年代に活躍をしたロック、ポップス界のレジェンドの訃報を立て続けに聞く。
その時代に多感な時期を過ごした中年のファン達の喪失感はすごい。
デビッド・ボウイが亡くなった時は、フェイスブックのタイムラインがそのトピックスで埋め尽くされてしまった。
(フェイスブックが若年層ではなく、結構上の年代層が使っている証拠か、とも思ったが。)
他の80年代ポップス愛好家はどうかはわからないが、僕自身は80年代の頃の自分のフィルターを通じて今の世間を感じているのだと自覚した。
良いのか悪いのか分からないし、きっとどっちでもない。
人に歴史あり、なので過去を否定して良い事など何もない。
そういう積み重ねの上に今の自分がいる。
それでも、もう一回まっさらな目で人生を見つめ返しても良いのかもしれない。
このブログタイトルと自分の事務所の屋号は「Naked Eyes」だ。
これは、裸眼でモノを見てみよう、という意味が込められている。
年齢を重ねると、あたかも何層のレンズを重ねたような視点でモノを見ることに慣れてしまう。
それは先入観とか常識とか既成概念とか思い込み、とか色んな意味のメタファーだが、もう一度そういうフィルターを取っ払ってみることで、新鮮に自分の人生を見ることが可能かも知れない。
とかなんとか言いながら、リアルに年を食ったことを感じてしまったので、自分に「過去ではなく、今を生きる」という事を実感して毎日楽しく充実させるためのチャレンジを課すことにした。
何をしたか、というと
シンプルに最新のビルボードのヒットチャートを聴くことだった。
さすがに、今更AKBとかジャニーズとかオリコンで流行ってる曲をチェックして、聴いたとしても盛り上がれる自信がないので、やはり洋楽にした。
2016年のリアルタイムなトップ20ポップスを全部apple musicでダウンロードしてそれこそ至る所で聴くようにしたのだ。
そもそも、今僕が聴いているような80年代ポップスだって、10代の頃にありとあらゆる機会で聴くことで好きになったのだ。
あの頃は確かに聴いた瞬間に「これ最高!」とか思ったこともあるが、それは真っ白なキャンバスにその曲が持つポテンシャルが染み入っただけに過ぎない。
今、僕のキャンバスに白い隙間は皆無だ。
一方で人は繰り返し同じ曲を聴いたり、同じ人に会ったりすると愛着を覚えるものだ。
その作戦だ。
普段仕事場で流しっぱなしにしてる音楽も変えた。
アプリ経由でリアルタイムのカルフォルニアにあるFM局のTop40専門局に限定したのだ。
様々な楽曲が自分の血となり肉となるには、リアルタイムに起きる出来事との関連性が必要だ。
今、そこで新しく聴こえてくる楽曲には何の思い入れもない。
そこが良いのだ。
47歳になった今、その時代を象徴するような新しい才能を介して世界を見るのはとても新鮮だ。
ヴァンヘイレンを聴きながらドライブする時に見える景色も最高だが、時代のトップを突っ走るテイラー・スウィフトやアデルを聴きながら見る景色は、なんというかフレッシュだ。
「過去ではなく、今を生きる」という当たり前を実感できる。
既に僕はレイチェル・プラッテンに魅了されている。最高だ。 |
ポップミュージックの力はいつでも偉大なのだ。
最近の曲はみんな同じに聴こえる、とかは思わなくなった。
それぞれの楽曲がそれぞれのアーティスト独自のストーリーとプロデューサーの思い入れを体現している。
誰しもが、過去を積み重ねて生きている。
そして、新しいモノを受け入れるのは予想外にシンドイ。
どうしても慣れた方に自分が寄って行ってしまうからだ。
僕の奥歯には新しい歯が入るだろう。(インプラント・・・。いくらかかるんだよ!)
失った歯はもちろん、モノや時間に想いを馳せるのは、いつでも出来る。
それよりも新しい何かを意識して行うことが大切だ。
そうすれば、現実をリアルタイムで実感して、フレッシュな気分でチャレンジを続けることが出来る。
コケるのがデフォルトになる。
そういうチャレンジングなマインドセットに自然と切り替えられることが可能という意味だ。
まぁ、そういう大げさな意味じゃなくてもアデルやレイチェル・プラッテンやブルーノ・マーズを聴くのは楽しいんだけどさ。
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