Koy's blog

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2016年2月1日月曜日

ベッキー騒動に思ったこと。偶像、過剰な期待と幻想と。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水のなかにあるもの、それらのものの形を造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト記』20:2-5:ウィキペディアより


タレントは生身の人間じゃないのか。


数年前、あるクライアントの広告で起用する為にタレントさんの選考を必死こいてしていた。

20代から30代前半で、好感度の高い女性タレント、というのが条件だった。

そういう売れっ子のタレントは既にどこかの競合スポンサーと契約しているので、選考は結構難しい。

タレントに頼らないようなアイデアを提案したい、とかいうのが僕らクリエイティブを生業にする人間の共通の思いなのは間違いない。


所が、流通対策とか、クライアントの社内が盛り上がる、とか色んな理由でタレントさんが必須、というクライアントは多い。

とかなんとかやってるウチに、条件にパーフェクトな女性タレントが見つかった。
いざ、提案!と言う時に、事務所から連絡が入った。

とある男性俳優と熱愛中だというのだ。
しかも妊娠してるかも!という。
まだマスコミにはリークされていない情報だった。


タイミングを見て事務所から「結婚」を前提にした「発表」をすると言う。
業界の常識から考えれば、ものスゴく正直で良識のある事務所だった。

ようし、振り出しだ!って言う感じになってしまい、普通なら、別のタレントを探すのだろうが、僕は「なんだよ、スゴいメデタイじゃないか!」と思った。

タレントだって生身の人間だ、恋愛もすればエッチだってするし、年頃だったら結婚もするし、妊娠もするだろう。


むしろ、そういうことを「メデタイ」と言えるスポンサーは世間から「イケテル」と思われるんじゃないの、というのが僕の率直な気持ちだった。


好感度の高い女性タレントが独身で男の影は1ミリもありません、って言うのは全然セクシーじゃない。

ボンドガール史上最高齢ってことになってるモニカ・ベルッチの大ファンである僕はそう思う。


きっとモニカ・ベルッチは、恋愛や妊娠がネガティブに感じるような日本の芸能界では仕事なんか絶対にしたくないだろう。


そういう事を口にするダサい業界関係者とは食事すらしてくれないだろう。
僕はいつかは彼女と食事がしたいのだ。


そのタレントさんの事務所は「ご迷惑になってはいけないので」という業界的な良心で僕らに彼女の環境が変わる可能性を伝えてくれたのだ。

しかし、なぜ、恋愛が、妊娠が、結婚が「ネガティブ」なニュアンスを持つのは何でなんだろう??

結局、そのクライアントは幾人かの候補の中から別のタレントさんをピックアップした。

その別のタレントを起用したCMがオンエアされてしばらくして、かのタレントさんの結婚と妊娠が発表された。

幸せそうな彼女の笑顔は素敵だった。

確かにテレビに出るようなタレントさんや女優さんは「自分の人生」を切り売りしている部分はあるだろう。


一般人とは違う覚悟が必要なのかもしれない。
とは言え、恋愛とか妊娠とか結婚とか離婚とか不倫とか、そういうのは思いっきりプライベートな話だ。

はっきり言えば、他人がとやかく言うのは全くもって大きなお世話だ。



ベッキー騒動が象徴していること


年明けに週刊文春で不倫をスクープされ、意味不明な「お詫び会見」をやらされたタレントのベッキーさんが「休業」に追い込まれてしまった。


彼女の場合は結婚ではなくて不倫だったので、バッシングの対象になってしまった。
その会見は多分に「スポンサー筋」「マスメディア関係者」に向けた超日本的な「お詫び」会見だった訳だが、その後にスクープ第二弾でさらされたLineのやり取りが致命傷だったようだ。

会見の前日に相手の男性ミュージシャンと交わしたやりとりが「不謹慎過ぎる」と彼女を擁護していた層までが、彼女に批判的になってしまったからだ。

その内容に関しては、ありとあらゆる所で散見されるので、ここでは詳しく書かないが、僕はそのやり取りを見て、「肝っ玉強いなベッキー」とか逆に感動してしまったのだ。

無邪気過ぎるくらいな内容だった。


もちろん、この騒動には被害者がいる。
それは、相手の男の妻だ。

しかし、彼女を除けば、他に誰が被害者なのか分からない。

彼女の明るく奔放で礼儀正しい姿に魅了されファンになっていた人達。
そういう彼女の影響力を魅力を感じたスポンサー。


そういう人達が被害者なんだろうか。


僕はミーハーなので、この騒動を無視してるフリをしてついつい追っかけてしまったが、彼女が僕に何をしたわけでもない。


通常、企業のCMキャンペーンはプロモーションの一環として実施される。

その契約途中での「不祥事」による降板は、そのキャンペーン期間中に企業が得るべきだったはずの「利益」への損害が取り沙汰されるので、大きな問題であることは間違いが無い。

ただ、僕が個人的に感じるのは、どんな種類の「不祥事」なんだこれは?って言う事だ。

彼女はただ、妻のいる才能あるミュージシャンに惚れてしまっただけだ。

(ちなみに、僕はベッキー、そのミュージシャンのいずれのファンでもない。モニカ・ベルッチとボン・ジョビのファンだ。)

その男と彼の妻と、そしてベッキーで話し合って解決すれば良いだけの話じゃないだろうか。

なんせ、彼女はうら若き女性なのだ。

(何度も言うが、もし僕がミュージシャンの妻の友人だったら、その妻を友人として擁護するだろう。もしミュージシャンの友人だったらミュージシャンを擁護するかもしれない。ベッキーが友人だったらベッキーを庇う。要するに当事者との距離の問題なのだ。
スポンサーサイドにいたら?
気にせずオンエアしましょう!とか能天気に言い放ってクビになるだろう。

それでも「彼女のこれこれこういう部分が好きで魅力に感じ私達は彼女をCMに採用したのです。多くの彼女のファンも理解してくれるでしょう。彼女のプライバシーは尊重こそすれ、批評はしない。ただ当事者で適切な着地点を見つけていただきたいと願うばかりです。」とかは言うかも知れない。)


ああ、そうか、これが、偶像崇拝なのかも。



と、そこで僕の思考は飛躍してしまい「偶像崇拝」を禁じている西洋の宗教のことを思ってしまったのだ。

あるユダヤ教の研究者である人が自身の著作でこんなことを書いていたのを思い出す。


彼は自身が若く戦後間もない時にある孤児院を訪ね、そこでしばらく孤児達の面倒を見ながら過ごす事になった。


いよいよ彼がその孤児院を去って帰京する時に、仲良くなった幼い孤児達が自作の歌を歌ってくれた。


書かれていた歌の内容の詳細は残念ながら覚えていないのだが、こんな感じだった。

「お母さんに会いたい。きれいで優しいのかな、でもどんな顔でも、どんなにいやなひととでも、恐い人でも構わない、顔をみせて」みたいな感じだった。

けっこう泣ける感じだった。


その著者は、偶像崇拝を禁じるユダヤ教の研究者(だったと思う。相当前の本なのでうろ覚えでスミマセン)なので、その自分の体験からひとつの大きな示唆を導き出していた。



検索したらあった。これだ。この本の中のエピソードに孤児院の話があったはず。


著者は言う。


人は心の中に「偶像」を作る。

その対象に過剰な期待を人はしてしまうのだ。
私のお母さんなら、キレイな人に、世界で一番優しい人に決まってると。

ところが、その孤児達は違った、「ありのままの母」を受け入れる、と歌っていたのだ。


著者である彼は自分自身が、他人に対して大いなる期待と幻想と、裏切られた、という気持ちを持っていたのを、この孤児達から戒められた、というようなことを書いていた。



ベッキーは偶像化され、ハンパない期待感を背負ったのだ。


この「ベッキー」の騒動を見ていて思ったことは、まさに世間とかいう空気に存在している過剰な「期待感」の事だ。


それが「裏切られたとき」、彼女は世間から「休業」というカタチで葬り去られてしまうのだ。


全ては「幻想」なのに。

しかし、その「幻想」を売り物にしているから、という理由で、こういう状況に一度陥ると圧倒的に批判&否定されてしまうのだ。
いや、芸能界は甘いから「復活」出来るよ、現に不祥事を起こしたタレントが普通に復活してるじゃないか、という意見もあるかもしれない。

今はネットがあるので、昔程イージーに復活というわけには行かないと思っている。

現に、これも不倫で相当バッシングされた元アイドルグループのタレントの復活もウマくいってるとは思えない。


ドラッグ関連で逃走劇を演じたタレントも、小さなライブ会場で地道な活動をしているが、芸能界のメインストリームに戻って来てはいない。

(今は、テレビ局もコンプライアンスが徹底されているので、世間の目が何よりも恐いのだ。)

要するにこの騒動に対して擁護する側も非難する側もどちらも彼女に「偶像」を見ているのだ。


カタカナで言うと「アイドル」だ。

「世間」の意識で形成された「偶像」は過剰な期待を背負ってしまう。


僕は別に特定の宗教の話をしたい訳ではないです。

念のため。。。

ただ、そういうことを戒め、「『偶像』を作るな、『それにひれ伏すな』『それに仕えるな』」というアイデアから学べることは多い。

ヨーロッパでもハリウッドでもいわゆるセレブリティのスキャンダルなニュースは聞く。


セレブがいれば、ゴシップ好きもどこにでもいるからだ。

が、ここまで過剰な反応は起こりにくい。


世間の期待感に対する「お詫び」を強いられ、そしてそれを期待する社会が、きっと今の日本だ。


宗教の話ではなく、価値観の話なのだ。

自分は何事にも左右されない。
他人事はしょせん他人事なのだ」

というメンタリティが主流の場所では、きっとこういう騒動は起こりにくいのだろう。

そして僕は、日本ももう少し、他人に対する「過剰な期待」を抑え「期待はまぁ他人より自分にするかな」みたいな社会になったら生きやすいのだろうな、と考えるのだ。

一方で、マーケティング的な視点でみれば、話は違う。

(タレントやブランド)自身への期待と幻想を徹底的にコントロールする戦略を取れば、「世間」に自身を崇拝させる状況を作り出すことも可能だという事だ。










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