集団と個人は対立しない。
前回のポスト、複数の方から共感をいただいた。
正直に嬉しく思ってしまった。
それは米国発の自己啓発的な本の翻訳を読む時は、その前提として「個人の確立」が重要だよね、という内容だった。
こちらです。。
そんな中に、
「でも、日本人がアメリカ人みたく「個」を主張していくのって違和感ないですか?」
という当然のクエスチョンもあった。
僕は「欧米」的価値観の盲目的な信奉者では全然ナイ。
むしろ日本には日本独自の「個」のあり方があると思うクチだ。
よく「農耕民族」対「狩猟民族」とか聞く事があると思う。
少し自虐的に日本人を「農耕民族だから、集団主義で村社会過ぎるから個人が強い欧米に勝てないし、グローバル化に対応出来ないんだ!」とか定義してしまう例の議論だ。
ところで「農耕」は「狩猟&採集生活」を経た上での人類サバイバルの為の発明だ。
なので、そういう特定の「民族」がいるというのは幻想だ。
アメリカとかフランスとかだって世界でもトップクラスの農業国だ。
近代化以前は、多くの国でマジョリティは集団で農耕を営み、さらに欧州などは権威と権力を併せ持つ権力者に搾取されてきた弱者だ。
(日本は異なるけど、その話は別の機会に。。)
だから日本だけを見て「農耕民族」とか言うのはナンセンスだというのは素人の僕でも分かる。
さらに、日本には漁業で生計を立てている人がたくさん居るので、彼らはそういう意味では「狩猟民族」だ。
同様に「個人」vs「集団」という対比もナンセンスだ。
人間は「個」を束ねた「集団」でしかサバイブが出来ない。
それが社会だし、とても対立させるような基軸じゃない。
沖縄かどこかの孤島に一人、すっ裸で暮らすオジさんみたいな人がバラエティ番組で取り上げられることがある。
そのオジさんの世捨て人っぷりに、ひな壇タレントが「え〜!」みたいに驚いているような番組だ。
きっとその人は特殊だし、そういうオジさんもがっつりラジオなどから情報を得ていたりするから、完璧に孤高の人ではない。
話は飛んで、歴史のストーリー。
日本の近代化は「個人」が主導した「集団」が成し遂げた。
歴史の解釈は人によって異なる領域だ。
でも僕はこのトピックを書き始めちゃった以上、是非とも触れなくてはならないのだ。
幕末から明治の転換期。
それは「維新」と呼ばれる。
良く外国人と話している時に「維新」を「リボリューション」と分かりやすく翻訳してしまう人がいる。
それは、間違いだ。
「革命」は権力に押さえつけられた下層の人々が反旗を翻す行為だ。
(近代以降では「社会主義」や「共産主義」への転換のことを「革命」と呼んだりするけれど、それは資本家を新たな権力層だと敵視したから「革命」なのだ。)
幕末の維新。
それは、ヒエラルキーのトップに君臨していた武士層が、チョンマゲをガチな思いで断髪した、と言う意味で「革命」ではない。
維新は彼らが「集団の論理」でカチンコチンになった「藩」を脱藩することで、浪人=自由な個人(それがさらなる「集団」を形成)となって成し遂げた、「国家の回復事業」なのだ。
英語ではRestorationだ。
帰還とか、回復とか、復元、とかそういう意味に訳される。
日本でも「個」がファンクションすることで、幾多の困難を乗り越えたことが大いにあるのだ。
じゃあ、今の「空気を読め」みたいな目に見えないけど人をガチガチに縛る「集団」のロジックって何なんだ?
サッカーの代表戦でも普通にコメントされる「日本は個人のスキルは弱いけど、組織力で勝つ」みたいなロジック。
ん?
一瞬聞き流してしまいそうなこのコメントに僕は違和感を持つ。
どの国のサッカーだって、組織で戦っているんじゃないのか?
個人のスキルを束ねたら、組織の力になるのがチームプレイにおける世界共通で当たり前のことな気がするけど。。
なんで日本だけ個人はヘタレだけど、組織になると強い、みたいな神話が生まれたんだろう??
僕は戦後の復興の為の国策がそういう「神話」を必然的に醸成しちゃったから、というのが答えだと思っている。
僕は経験していないので想像でしかないけれど、
戦後の復興から高度成長が終わる70年代までの30年間というのは日本が一丸となった凄まじいパワーに満ちあふれた時代だったのだと思う。
そこでは、「個」は圧倒的な無力だ。
なんせ、大いなる敗戦だ。
皆の力を合わせるのが必然となった。
そこには「個」としてこう生きたい、というような要求は存在しなかったのではないか。
仮に存在しても、話にオチがない関西人のように陽の当たらない存在だったのだ。
残念なことだが、しょうがない。
(僕の友人のインテリでナイスな大阪人は、なんで東京の人は関西人に芸人みたいなボケとツッコミばかりを要求するのか、とご立腹だった。それには同情するしかない。吉本とバラエティ番組のせいだ。)
過酷な戦地を経験して、辛くも復員した兵隊さん達は、戦死した戦友を思い、敗戦した日本を復興させる事が人生のミッションとなった。
などと言うような高尚なミッションよりも、とにかく食わねばならない、というリアルな要求も当然あっただろう。
GHQに解体された財閥は、しぶとく復活を果たした。
町のいたる所では「三丁目の夕日」みたいに、家族のサバイバルの為に町工場を開くような人もいた。
それが、束になり大企業をトップとする下請けの下請けみたいなピラミッド型のヒエラルキーを形成した。
そういうところから財閥を凌駕するようなSONYやHONDAが生まれて来たのは誰もが知る事実だ。
そして、東北を中心とする地域からは、農家を営む故郷を遠く離れ、中学を卒業したばかりの人々が金の卵と言われて、上京してきたのだ。
日本の再工業化と復興の為に。
誰しもが集団や組織に所属する事が、自然であり、サバイブの為には当たり前だったんだと思う。
結果として、集団と組織の論理が個人の論理よりも優先することになったのだろう。
それが、組織に準ずる個人が当たり前だ、という社会を生んだ。
でも、今はそんな時代はとっくに遠い過去になってしまった。
バブル崩壊はその兆しだった。
いまや司馬遼太郎氏が、かなり前に指摘した「美しき停滞」を甘んじて受けなくてはいけない時代だ。
ところが、いまだにあの時代のメンタリティが残っている事に問題があるのだとしか思えない。
この失われた20年というのは正しく言うと「失われた盲目的集団主義」だ。
「集団主義」から「個人」と「個人」が共存する価値観への大転換、という準備期間だったような気がするのだ。
まさに維新と言って良い。
個人の復権。
Restorationだ。
この20年は「失われていた『個人』のダイナミズム」を取り戻す為の転換期だったのだ。
僕は祝福すべきことなんじゃないか、とすら思う。
組織の為の個人ではなくて、個人が活きる組織がノーマルな状態になるチャンスだからだ。
「集団」ありきで「個人」を規定するのではなくて、「個人」ありきで「集団」を形成する時代の到来。
一度だけでいいから、
- 「空気を読む」ことをヤメてみよう。
- 「飲み会」を何の理由もなく断ってみよう。
- 家族を優先して「会社」をずる休みしてみよう。
- 「会社」を言い訳にするのをヤメてみよう。
- 世間体を気にして出来ない事をやってみよう(もちろん合法的なことで!)
- 古い集団主義思想に侵された「会社」から脱藩してしまおう。(気持ちだけでも)
- 「個人」の論理が「会社」に、そして「社会」に貢献出来ないか考えてみよう。
- 皆と同じ時期に就活するのをヤメてみよう(きっと勇気がいるだろうけれど)
- 同じような価値観の個人を探してみよう。つながってみよう。もしかすると大それたことが可能になるかも知れない。
そうすれば、この閉塞感を突破するような何かを発見出来るかも知れない。
そういうことが出来る時代に確実になっているのだと僕は思う。
維新の時だけではない。
戦後直後だって、個人の力を結集した人達がいた。
日本人は、時代時代の節目に「個人」が活躍する時代が必ずあった。
きっと今もそうだ。
そういう時代に、なぜ「世間体」や「集団」の論理を気にする必要があるのだろう。
一人一人が、「個人」の時代だと認識し、そして行動をすれば、日本はもっと面白くなる、そう思ってる。
そしてそれは、新しい「個人」ありきの「集団」を形成するのだ。
個人が暴走したら秩序がなくなってしまうんじゃ、とか言うことは心配しても起こらないと確信している。
日本人の中には、「和を尊ぶ」という精神が深く根付いているから。
それこそが、まさに日本独自の「個」のあり方なんだろうと僕は考える。
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