Koy's blog

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2015年3月28日土曜日

失われた20年は祝福すべきことだった?組織ありきから個人ありきの時代へ。

集団と個人は対立しない。


前回のポスト、複数の方から共感をいただいた。

正直に嬉しく思ってしまった。


それは米国発の自己啓発的な本の翻訳を読む時は、その前提として「個人の確立」が重要だよね、という内容だった。

こちらです。。

そんな中に、

「でも、日本人がアメリカ人みたく「個」を主張していくのって違和感ないですか?」
という当然のクエスチョンもあった。

僕は「欧米」的価値観の盲目的な信奉者では全然ナイ。


むしろ日本には日本独自の「個」のあり方があると思うクチだ。

よく「農耕民族」対「狩猟民族」とか聞く事があると思う。

少し自虐的に日本人を「農耕民族だから、集団主義で村社会過ぎるから個人が強い欧米に勝てないし、グローバル化に対応出来ないんだ!」とか定義してしまう例の議論だ。


ところで「農耕」は「狩猟&採集生活」を経た上での人類サバイバルの為の発明だ。


なので、そういう特定の「民族」がいるというのは幻想だ。

アメリカとかフランスとかだって世界でもトップクラスの農業国だ。


近代化以前は、多くの国でマジョリティは集団で農耕を営み、さらに欧州などは権威と権力を併せ持つ権力者に搾取されてきた弱者だ。
(日本は異なるけど、その話は別の機会に。。)

だから日本だけを見て「農耕民族」とか言うのはナンセンスだというのは素人の僕でも分かる。

さらに、日本には漁業で生計を立てている人がたくさん居るので、彼らはそういう意味では「狩猟民族」だ。

同様に「個人」vs「集団」という対比もナンセンスだ。

人間は「個」を束ねた「集団」でしかサバイブが出来ない。
それが社会だし、とても対立させるような基軸じゃない。

沖縄かどこかの孤島に一人、すっ裸で暮らすオジさんみたいな人がバラエティ番組で取り上げられることがある。

そのオジさんの世捨て人っぷりに、ひな壇タレントが「え〜!」みたいに驚いているような番組だ。

きっとその人は特殊だし、そういうオジさんもがっつりラジオなどから情報を得ていたりするから、完璧に孤高の人ではない。


話は飛んで、歴史のストーリー。

日本の近代化は「個人」が主導した「集団」が成し遂げた。


歴史の解釈は人によって異なる領域だ。

でも僕はこのトピックを書き始めちゃった以上、是非とも触れなくてはならないのだ。

幕末から明治の転換期。
それは「維新」と呼ばれる。

良く外国人と話している時に「維新」を「リボリューション」と分かりやすく翻訳してしまう人がいる。

それは、間違いだ。

「革命」は権力に押さえつけられた下層の人々が反旗を翻す行為だ。

(近代以降では「社会主義」や「共産主義」への転換のことを「革命」と呼んだりするけれど、それは資本家を新たな権力層だと敵視したから「革命」なのだ。)

幕末の維新。

それは、ヒエラルキーのトップに君臨していた武士層が、チョンマゲをガチな思いで断髪した、と言う意味で「革命」ではない。



維新は彼らが「集団の論理」でカチンコチンになった「藩」を脱藩することで、浪人=自由な個人(それがさらなる「集団」を形成)となって成し遂げた、「国家の回復事業」なのだ。

英語ではRestorationだ。
帰還とか、回復とか、復元、とかそういう意味に訳される。

日本でも「個」がファンクションすることで、幾多の困難を乗り越えたことが大いにあるのだ。


じゃあ、今の「空気を読め」みたいな目に見えないけど人をガチガチに縛る「集団」のロジックって何なんだ?




サッカーの代表戦でも普通にコメントされる「日本は個人のスキルは弱いけど、組織力で勝つ」みたいなロジック。

ん?

一瞬聞き流してしまいそうなこのコメントに僕は違和感を持つ。

どの国のサッカーだって、組織で戦っているんじゃないのか?

個人のスキルを束ねたら、組織の力になるのがチームプレイにおける世界共通で当たり前のことな気がするけど。。

なんで日本だけ個人はヘタレだけど、組織になると強い、みたいな神話が生まれたんだろう??

僕は戦後の復興の為の国策がそういう「神話」を必然的に醸成しちゃったから、というのが答えだと思っている。


僕は経験していないので想像でしかないけれど、
戦後の復興から高度成長が終わる70年代までの30年間というのは日本が一丸となった凄まじいパワーに満ちあふれた時代だったのだと思う。

そこでは、「個」は圧倒的な無力だ。
なんせ、大いなる敗戦だ。
皆の力を合わせるのが必然となった。
そこには「個」としてこう生きたい、というような要求は存在しなかったのではないか。

仮に存在しても、話にオチがない関西人のように陽の当たらない存在だったのだ。
残念なことだが、しょうがない。

(僕の友人のインテリでナイスな大阪人は、なんで東京の人は関西人に芸人みたいなボケとツッコミばかりを要求するのか、とご立腹だった。それには同情するしかない。吉本とバラエティ番組のせいだ。)

過酷な戦地を経験して、辛くも復員した兵隊さん達は、戦死した戦友を思い、敗戦した日本を復興させる事が人生のミッションとなった。

などと言うような高尚なミッションよりも、とにかく食わねばならない、というリアルな要求も当然あっただろう。

GHQに解体された財閥は、しぶとく復活を果たした。

町のいたる所では「三丁目の夕日」みたいに、家族のサバイバルの為に町工場を開くような人もいた。

それが、束になり大企業をトップとする下請けの下請けみたいなピラミッド型のヒエラルキーを形成した。

そういうところから財閥を凌駕するようなSONYやHONDAが生まれて来たのは誰もが知る事実だ。

そして、東北を中心とする地域からは、農家を営む故郷を遠く離れ、中学を卒業したばかりの人々が金の卵と言われて、上京してきたのだ。

日本の再工業化と復興の為に。

誰しもが集団や組織に所属する事が、自然であり、サバイブの為には当たり前だったんだと思う。

結果として、集団と組織の論理が個人の論理よりも優先することになったのだろう。

それが、組織に準ずる個人が当たり前だ、という社会を生んだ。


でも、今はそんな時代はとっくに遠い過去になってしまった。

バブル崩壊はその兆しだった。

いまや司馬遼太郎氏が、かなり前に指摘した「美しき停滞」を甘んじて受けなくてはいけない時代だ。

ところが、いまだにあの時代のメンタリティが残っている事に問題があるのだとしか思えない。


この失われた20年というのは正しく言うと「失われた盲目的集団主義」だ。

「集団主義」から「個人」と「個人」が共存する価値観への大転換、という準備期間だったような気がするのだ。

まさに維新と言って良い。
個人の復権。
Restorationだ。

この20年は「失われていた『個人』のダイナミズム」を取り戻す為の転換期だったのだ。

僕は祝福すべきことなんじゃないか、とすら思う。

組織の為の個人ではなくて、個人が活きる組織がノーマルな状態になるチャンスだからだ。


「集団」ありきで「個人」を規定するのではなくて、「個人」ありきで「集団」を形成する時代の到来。


一度だけでいいから、

  • 「空気を読む」ことをヤメてみよう。
  • 「飲み会」を何の理由もなく断ってみよう。
  • 家族を優先して「会社」をずる休みしてみよう。
  • 「会社」を言い訳にするのをヤメてみよう。
  • 世間体を気にして出来ない事をやってみよう(もちろん合法的なことで!)
  • 古い集団主義思想に侵された「会社」から脱藩してしまおう。(気持ちだけでも)
  • 「個人」の論理が「会社」に、そして「社会」に貢献出来ないか考えてみよう。


  • 皆と同じ時期に就活するのをヤメてみよう(きっと勇気がいるだろうけれど)
  • 同じような価値観の個人を探してみよう。つながってみよう。もしかすると大それたことが可能になるかも知れない。

そうすれば、この閉塞感を突破するような何かを発見出来るかも知れない。


そういうことが出来る時代に確実になっているのだと僕は思う。

維新の時だけではない。
戦後直後だって、個人の力を結集した人達がいた。


日本人は、時代時代の節目に「個人」が活躍する時代が必ずあった。

きっと今もそうだ。

そういう時代に、なぜ「世間体」や「集団」の論理を気にする必要があるのだろう。

一人一人が、「個人」の時代だと認識し、そして行動をすれば、日本はもっと面白くなる、そう思ってる。

そしてそれは、新しい「個人」ありきの「集団」を形成するのだ。
個人が暴走したら秩序がなくなってしまうんじゃ、とか言うことは心配しても起こらないと確信している。

日本人の中には、「和を尊ぶ」という精神が深く根付いているから。

それこそが、まさに日本独自の「個」のあり方なんだろうと僕は考える。

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2015年3月25日水曜日

自己啓発本がけっこう流行っているけど。。東京の書店にて。

最近の東京の書店では。


最近はKindleで本をゲットすることが多いのですが、それでもリアルな書店でのひとときは結構な癒しの時間だ。

その時々の自分が何を問題と考えているか分かるし、世の中の人が何を欲しているかの断片を知る事が出来る。

前回の東京へのショートトリップでも数件の本屋に通った。


そして、日本人(東京だけの傾向かもだけど)が最近はこういう(↓)のを求めてるのだと知った。

・新しいワークスタイル
・(伝わる)コミュニケーションの仕方
・引き寄せの法則(系)

自己啓発系が多かった。
少なくとも、青山、六本木、恵比寿界隈の本屋での傾向だ。


テクニカルなビジネス書と言うより、

・個人としてどう(働き)生きるべきか。
・価値観の異なる人にどう対峙して行くのか。
・人生をもっとベターなモノにするにはどうしたら良いか。

みたいな目先の事よりも上位概念的な内容の書籍が目についた。

いい大学を出ていい会社に入る事がデフォルトであり、「会社人生」というモデル、というか価値観が画一的だった頃はそういう本が平積みなることは無かった様に思う。

そういう種類の書籍は、書店の隅の方の宗教関係や哲学、心理学系の方にナポレオンヒルやカーネギー、マーフィー博士の本がひっそりとおかれている程度だったように思う。


一つの会社で人生を全うする分かりやすいモデルが崩壊してしまった。



高度成長期やバブル以前と以降の入社では同じ社内の人間も世代間の価値基準にギャップがあるような時代になってしまって、身近にロールモデルがなくなってしまった証拠なのかもしれない。

閉塞感と自分の人生への迷い、みたいなことを感じている人が少しでも前向きになろうとしている感じが今の東京なのかもしれない。



アメリカの「セルフヘルプ」ジャンル


アメリカでも自己啓発系は「セルフヘルプ」とカテゴライズされてジャンルとしてはかなり大きい。

こういう種類のジャンルの本場と言って良い。

もはや米国でリアルな書店チェーンと言えば「バーンズ&ノーブル」しか無いが、そこでも大きなコーナーがある。






アメリカ人は、生粋の自己責任信奉者かつ自己実現信奉者達なので、こういった「セルフヘルプ(自助)」の話が好きなのである。

誰かに聞いたのだが、これほど「自己啓発系」の書籍が好まれるのは、アメリカとそして最近の日本だけらしい。


ヨーロッパ人は、そもそも「自分らしく」人生を謳歌出来ればいいので社会的な尺度で測ったような「成功」や「人生一発逆転」を狙うようなメンタリティが薄いのがその理由なんだとか。。。

僕はそういうヨーロピアンな潔い「何も変わらないんだから、今日のワインを楽しむ事だけを考えよう」みたいなマチュアな吹っ切れた感じに憧れを感じてしまうタチだ。。

そう言えば、外資系の会社員だった頃ヨーロピアンの同僚が多く参加するグローバル会議に参加した。

僕は長い会議の後、ホテルのジムに行こうとそそくさと会議室を出ようとした。

その時、フランス人の同僚から呼び止められて、「よう、この後みんな(ヨーロッパ人)で夕飯までロビーのラウンジでワインを飲むけど、来いよ」と誘われた。

僕は「悪い、フィットネスジムで一汗流してからディナー参加するよ」と応えた。

「おいおい、ここはアメリカじゃないぜ。悪い事は言わない、ここのホテルのラウンジは最高にイケテルんだ。」みたいな事を笑いながら言われた。

彼らはヨーロッパのリゾートまで来て会議の後に、いつものルーティン的にジムに行こうとした僕を「セルフヘルプ」に余念が無いアメリカ人のビジネスマンと同様に見たのだった。

結局僕はジムに行ったのだが、そのジムにはアメリカ人の同僚がやはり来ていて黙々とトレッドミルで走り込んでいた。

本場の「セルフヘルプ」の本質は自力本願でリアリスト。



アメリカ人はそういう本を読むけれど、根はかなりのリアリストだ。

さらに、その根っこの奥底にはクリスチャン的な「求めよさらば与えられん」というコンセプトが染み付いている。

これは、自分と言う「個」を出発点として社会と対峙していく、というアメリカ人独特のメンタリティにもの凄く関係している。

分かりやすく言うと、自分の給料を上げるのに「待つ」ことをせず積極的に要求して行く事、そして受け入れられなければ身軽に転職して行く事(まぁ、不況の時はその限りではないけれど)が出来る彼らの行動を見ると分かりやすい。

世の中の全ては「交渉事」だと骨の髄までしみ込んでいる彼らは、「セルフヘルプ」の書籍からインスピレーションを受けて行動すれば人生は好転していく、ということを心底信じて実践しているのだ。

で、日本人というのは「要求する」ということに全然慣れていない人達だ。


「個」が先にあって、そこから何事もスタートする、というより「集団」が先にあって、そこから自己を確認して行く、というメンタルだ。

自ら「個」を前面に出して「要求」して行くのは、かなりしんどい。


何故なら、「集団」の利益と「個」の利益は背反するかもしれないからだ。

会社がこんな苦しい時期に、給料上げろなんて言えないよな〜、とか思うのは日本人なら普通の感覚だ。


実際にそういう果敢な同僚がもし居たとしたら、相当な違和感を感じてしまうだろう。
ただ、上に挙げたような書籍に出版社が力を入れているという事は、少なくとも東京に住み、本を習慣的に購入する人達の間では、「個人」として生きることの必要性みたいなものが徐々に認知されて来ているのかも知れない。

集団や共同体に依存した所で、誰も自分の人生に救いの手を差し伸べてなんかくれない、ということをリアルに感じ始めているのかも知れない。


そういう本にヒントを求めて、自分の人生の目的を真摯に考えて行動する為のモチベーションにするのは何もしないより余程価値があると僕は考える。

ただ、特に自己啓発系書籍の(アメリカ発信の)翻訳本の場合、あくまでも「個」としての行動が前提としてあることを忘れてはいけないと思う。

そこを外してしまうと、どう働きどう人生のミッションを発見するのか、というビッグクエスチョンや「引き寄せの法則」や「思いは現実化する」というアイデアの「スピリチュアル」な側面ばかりに期待が寄ってしまう可能性があると思うからだ。

気が付くと「引き寄せ」を信じる「集団」の一部となっている自分を発見するだけになってしまうかも知れない。


ある「集団」から別の「集団」に意識が移っただけということだ。

だとしたら、メチャクチャもったいない。

「Self-Help」という文字通り、自分という個人を高める為のツールがこのジャンルなのだ。

日本人にはメチャクチャ苦手なはずの「個人」を確立することが本当の「セルフヘルプ」のスタートなんだと僕は思う。


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2015年3月21日土曜日

ライフスタイルは意志。LAははっきりそのことを教えてくれた。

ライフスタイルとは意志だ。

そういうことを南カリフォルニアの強い日差しが照りつけるマンハッタンビーチのカフェでラグニタスの絶品ペールエールビールをグビグビ飲みながら考えた。



のどかなのに高級感漂うマチュアなマンハッタンビーチ。
住人は洗練されてて、この空気感は心底魅力的だ。


この二週間で、東京、ホノルル、LAといった場所で過ごした。

3月上旬の東京は真冬並に寒く雨が続き憂鬱な気分になってしまった。
ホノルルは記録的な低気温で、そしてLAはほとんど真夏だった。

半年振りだった。

アンチLAだった僕は前回のLA旅行で自分が間違っていた事に気が付いた。

その時のブログはこちら。

なので、今回の旅ではかつての同僚で現在LAに在住している数人の仲間に会って実際のLAライフを根掘り葉掘り聞く事も重要なアジェンダの一つだった。

その仲間は全員が女子だ。

日本のアホみたいな旧態依然とした男社会に見切りをつけ、LAで活躍している彼女らは日本の「キラキラ女子」と言う言葉が、くすんで感じられるほど「キラキラ」して眩しかった。

そして、僕は改めてLAという都市の魅力に取り憑かれてしまったのだ。

LAは観光に向かない街だ。
はっきり書くと「そこに暮らす住人」の為の都市だ。

個人のライフスタイルを最優先するような住人に適した都市なのだった。

何しろ、街が面として巨大に広がっているし、人の行動の基本は「車」だし、メッチャ直線的だ。

流されてどこかに辿り着く、ということはありえない。
どんなに疲れていても移動中に寝ちゃったりすることも出来ない。

この素晴らしい気候とインデペンデントでチャレンジングな風土を「価値」とするような住人が主役の場所なのだ。

世界の都市をそれぞれ比較するのはあまり意味が無い。

LAに来る直前に1週間滞在していた東京では雨が続いていた。

気温も真冬並で、僕はあと一歩でウツになってしまいそうな気分だった。

地下鉄では誰しもが黒い服を着て下を向いていた。

そういう時はついつい意味ないとわかっていても比較してしまうのだ。

何故か分からないが、東京では個人の意志の優先順位がメチャクチャに低く設定されてしまうような感覚がリアルな気がする。

誰しもが我慢をしている感じだ。

個人としての理想のライフスタイルを実現するには障害と弊害が多過ぎる。
仕事というか「会社優先」な空気が充満している。

個人より所属しているどこかが評価の基準だ。

最近では「ベンチャー」とか「スタートアップ」ですら、「所属感」を漂わせていて正直気持ちが悪い。

「何やってるんですか?」「ベンチャーです」って会話が成立するのはおかしい。


もちろん今回の滞在でも気のおけない友人達との時間は愉快過ぎた。

港区、渋谷区をターゲットにして通ったラーメンは究極的に旨過ぎた。

寿司を食うなら世界のどこよりも東京がお薦めだ。

そいうソフト面では当然最高なのが東京だ。

海外から訪れる旅行者は東京に自分が住むイメージは出来ないけれど、最高に楽しい街だった、とか言ってくれる人が多い。

僕個人の感覚で言うと、LAに住むイメージは出来るけれど、観光のイメージが湧かない、という意味で真逆の都市だ。


ハワイに戻って、間髪入れずに旅立った僕を迎えたLAは東京と違って、30度を越える天気が続いていた。
真夏だった。

行く先々のレストランでクラフトビールが喉を通るたびに生きてると実感するような感じだ。

ハワイが神が創った楽園なら、LAは人間が造った理想郷なのだ。
一週間前に、東京の雨と寒さと地下鉄でウツになりかけた僕は、ここで一気に息を吹き返したのだった。


この都市は完全にどこまでも人工的だ。
僕の知る限りのどの世界の都市とも成り立ちが違う。

(そういう人口的で慢性化した渋滞やコンペティティブな環境を嫌ってより人間的なライフスタイルを求めて、コロラドとかの地方都市に移住する人も多い。)
あるストリートを境に景色がガラッと変わってしまう。

お洒落な人々が無防備に笑顔で歩いているワンブロック先では、怪しげな男達がたむろしているような街だ。

(都市はそれぞれ問題を抱えている。
だから僕は無条件にLAを崇め奉っているわけではモチロンないです。)
LAはそれぞれ趣きの異なる街が広大に連なっている大都市だ。

そして、それぞれの街はそれぞれの主義主張を明確に持っている。

東京で言うと、確かに二子玉川と錦糸町では全く街の性質やキャラは異なっている。

でも、その差は間にある区や街、駅を挟んでグラデーション的だ。

気が付くと別の街になっている印象はとても曖昧でいい意味でも悪い意味でも日本的だ。

明確に「ここからここは違う場所」という線引きする意志を感じる事は無い。

僕のかつての上司であるアメリカ人は神田と銀座の区別が最後まで出来なかった。
え!全然違うじゃん!とか思って指摘しても、彼は「いや、どうみても同じ街だ」という感じだった。

LAの場合は、部外から訪れた人間でも、明らかに街の空気の違いやそこに存在する意志を感じる事が出来る。
人口的な街だから故に、そこの行政や住人の「この街はこうあるべき」という意志を感じるのだ。

そこには「観光客」という「部外者」を優先する価値基準は無い。

そこで生活している人間が構成する個の集団や家族の価値観が優先され、反映されているのだ。

この一年を通じて雨が少なく、太陽の日差しと気候からとてつもない恩恵を得る事の出来る大都市は、もともと何も無い砂漠だった。

大昔、ゴールドラッシュの時代に一攫千金を夢見た冒険野郎達と東部のエスタブリッシュメントから袂を分かった人々の意志が反映された都市がこのLAだ。

人口のほとんどを構成する新旧移住者達の「思い」ががっつり反映されている都市がLAなのだ。

どのように自分の人生をデザインし、どのように暮らし、どう地域の一員になっていくのか。

今回の旅では、滞在したホテルがある、ダウンタウンからカルバーシティ、マリナデルレイ、マンハッタンビーチ、そしてニューポートビーチまで素晴らしい街の息吹を感じに車を走らせた。

僕は自分のライフスタイルに自分の意志を反映させているだろうか?
そもそも自分の意志を持って人生をデザインしているだろうか?

この素晴らしい太陽とビーチと環境を人間にとって最適化した人工的で意志を持った都市でもいつか暮らしてみたい。

そう確信した旅だった。

ちなみにもちろん「ヤバそう」所は行っていない。
そういう所はそういう所で邪悪な「意志」が蔓延しているので、ノータッチがベストに決まってる。

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2015年3月14日土曜日

子供達に「未来志向」を教えるのは父親の役目だ。インターステラー。

スマホを自在に操る幼児達


誰しもが自分の子供と一緒にいても彼らを相手に出来ない時間があると思う。

食器を洗ったり、ベッドメイキングや済ませたいメールなどがあるような場合だ。


そういう時は型の落ちた使ってないiPhoneを渡してアプリのゲームで遊ばせることがある。


当然ウチの息子はハイハイを始めた瞬間からデジタルネイティブなので、文句も言わず嬉々としてレゴのアプリで遊んでいる。


ヘタしたら親の僕らよりiPhoneを使いこなしている様に見える時があってビビる。

WiFi環境では使えるので、Youtubeで子供用の動画を見せる事もある。

下手をすると、こっちの野暮用が終わって「さあ、アチョぼうか!」とか声をかけてみても完全に無視される場合だってある。

そういう息子の姿を見て、

「ああ、このコらは、僕らと違って物心着く前から手元にテレビ電話や、好きな時に好きな動画を見られるデバイスと共に成長して行くんだな。これって未来だな。デジタルネイティブだな。」
とか一瞬感慨深い思いに浸りそうになる。

でもちょっと待てよ・・・。

スティーブ・ジョブスは自分の子供達にIPhoneで遊ばせなかったという都市伝説のような話を聞いた事がある。

その話に加えて。

感動した!と皆が言ってた大作「インターステラー」を撮ったクリストファー・ノーランが

「僕らが子供だった頃は上(宇宙)を見上げて夢を見ていた。今の子供達はみんな下(スマホ)で現実を見ている。そんなんじゃダメだろ。」
みたいなことをインタビューで語っていた事を思い出したからだ。

僕が物心ついた時は、既に月に人類は到達していたし、戦闘機は音速を超えていた。
東京タワーは芝公園に出来てたし、大阪万博も終わっていた。

それでも僕が小学生だった時代は、子供雑誌に未来予想図が描かれ、いずれ人類は光速を超え、火星や土星の衛星に移住するんだ、ということを真剣に信じられる時代だった。

みんな、未来を、宇宙を信じていた。


未来志向であることは「父性」なんである


先述した「インターステラー」は2001年宇宙の旅へのオマージュに溢れた優れたSF大作だ。

(監督本人は「未知との遭遇」からのインスピレーションにも言及している。)


映画『インターステラー』オフィシャルサイトより


しかし同時に壮大な家族のストーリーでもある。

僕はSF映画が大好きなので、この映画がいかにリアリティにこだわって3次元から5次元の世界を宇宙を舞台に描いた作品なのか理解出来る。


ワームホールの描きかたも見事だった。


表のストーリーは人類を滅亡から救う宇宙飛行士と科学者のストーリーだ。

もう一度、デカイ画面で観たい!!


しかし、本質的な所は、「家族」の物語だ。
それも、父から子供への「父性としての愛情」を描いた物語だった。

「母性」が「自己犠牲と守護」なら「父性」は「未来へのチャレンジ(を子供世代に見せつける事)」である。
(僕の勝手な定義。今後のブログポストで変わる可能性大!)

だいぶ前の公開作品なので、「ネタバレ」前提に書いてしまう。


と言って「映画解説」ではないので、読んでしまっても、映画鑑賞の魅力を数パーセント削ぐくらいの損傷で済むはずだ。


さて、この映画の最大のそして静かな山場。


それは、年老いた「自分の娘」を娘がまだ幼い頃に別れたまんまの年齢(ワームホールや重力の関係で歳を取らない)で看取る自分、というシークエンスに他ならない。

ノーランはこのシーンにリアリティを持たせたくて、このテーマで映画を撮ったのではないか、とすら僕は考えてしまう。

親として「SFでも無い限り絶対に不可能な事」は自分の子供達世代が、歳を重ねていく姿、そして幸せな天寿を全うすることをこの目で見て確認することだ。

順当に行けば、自分が先にあの世に行くことは当然だからだ。

この映画がハリウッドの王道通りハッピーエンドと断言出来るのは、まさにこのシーンが存在しているからだと思う。

ノーランはこの映画で「父性」を描いた。

それは、

ー子供に生き様を見せる事。
ー時に自分のミッションを完遂する為に子供とは離れる必要があることを子供に理解させること。
ー子供に人生は生きる価値があることを教える事。
ー子供に未来を信じさせる事。

ーそして自己犠牲をしてでも何か別のものに(未来を信じ)命をかける信念を持つ事。

というものだった。

残された娘のマーフは父クーパーの帰りを信じて、未来志向で生きる決心をした。


そしてそれは結果的に、宇宙に旅立った父を救い帰還させる事にも成功したのだった。

自分の父性に導かれるまま、人類を救う為に、宇宙で孤独(数人のクルーはいるが)と闘い、帰還を果たす。


そして、自分の娘が何人もの孫など家族に囲まれ、「上を見続けながら、自分を信じ続けながら、自分を愛し続けながら」天寿を全うする姿を見て「救われる」のである。

そして、もう一人、別の星に残された同僚の科学者を救いに再び宇宙に旅立つ決心をするのである。

子供達に未来を信じてもらうこと



僕はiPhoneを自在に操る息子を見ながら、「未来だなぁ」などと、呑気に思っている場合ではないのだった。

僕らにはそれが例え幻想でも「信じられる明るい」未来があった。


そういう前向きで未来志向な空気が時代を進展させる原動力の大きな一つになっていたのは事実であると思う。

今、自分の子供らは掌に乗るデバイスで知る「現実」によって、どんどん現実指向になって行っていると感じるのは僕だけではないはずだ。

偉大な名監督のクリストファー・ノーランもそう言っているのだ。

僕ら父親は子供らにどういう未来を用意してあげられるのだろう。


どうやったら「未来」を信じるに値するものだと伝えて行く事が出来るのだろうか。

それがきっと僕ら(中年ドストライク)世代のミッションなのではないだろうか。

2015年3月4日水曜日

ストーリーテリング。ストーリー作りにおける鉄則のお話。

誰しもが「ストーリー」を求めている。


僕は「ストーリー」信奉者だ。
人は「ストーリー」に感動し、共感し、勇気をもらう。


マーケティングやコミュニケーションの仕事をしていると、
よくプロダクトやサービスには「ストーリー」が大事だ、という話を耳にする。

優れたビジネスアイデアには「ストーリー」が必要。

消費者には「ストーリー」で伝えよう。

みたいな文脈で使われる。


現代は製品やサービスがコモディティ化してしまった成熟社会だ。
製品のベネフィット(メリット)だけをテレビのCMで連呼しても消費者はもう誰も話を聞いてくれない時代になってしまった。

だから「共感させるストーリー」がブランドやサービスには必要なんだ!

全くもって正しい!
議論の余地がないほどに!

では、じゃぁ一体「ストーリー」って何だろう?

今や、企画書をつくる上で「ストーリー」は必須だと思っているビジネスパースンに「ストーリー」が「ストーリー」である為の「要素」について聞いてみよう。

驚くほどまちまちの答えがあるようだ。

「共感」「感動」「ベネフィット(メリット)の提示」「敵(競合)の存在が必須!」「起承転結のあるお話」など。


どれも正解と言えなくも無さそうだ。
それでも、居心地の悪い曖昧さは残る。

ビシっと、これが原則で鉄板な法則みたいなものはないのだろうか。

「ストーリー」とは100人の人が居れば100通りの、100個のブランドがあれば100通りのストーリーが成立するので、絶対的な「ストーリーテリング」の法則など無いような気がしてしまうのかもしれない。

実は、そんな事は無い。
法則はある。

絶対的な原則と言えるものが存在しているのだ。


ストーリー作りに欠かせない法則とは?


僕の知る何人かの国内外の優秀なマーケターやクリエイターは間違いなく優れた「ストーリーテラー」だ。
そして「法則」を知っている。

ストーリー作りのメッカ、ハリウッドにヒントを求めてみよう。

かの地のクリエイターなら誰しもが知っている法則だ。

ハリウッドでは四半世紀以上前からほとんど全てのストーリーはジョセフ・キャンベルが古今東西の「神話」を分析した「ヒーローズジャーニー」をお手本とした「ストーリー」作りが基本中の基本となっている。
ジョセフ・キャンベルの著作の一つ。世界中の神話化された英雄はそれぞれ異なる顔を持つが内包された共通項があるというお話。

ストーリーとは「凡人がヒーロー(男女・モノ・サービス関係なく)になる」というお話の総称だ。

ヒーローとは「戦隊モノ」だけを指すのではない。

そのストーリーがストーリーであるための鉄則は何か?
いくつかある鉄則の中でも、最も強力なもの。

それは「葛藤」である。

「そのお話には『葛藤』が含まれているのか?」ということである。


究極的に言えば、「葛藤」があればそこにストーリーは成立してしまうのだ。

面白いか面白くないかは別にして。

主人公が、「葛藤」を乗り越え、成長しヒーローとなって帰って来ること。

スティーブ・ジョブスがヒーローなのは、iPodやiPhoneを生み出したからだけではない。
彼は、生まれたあと里親に出され、巨大なコンピューター企業(IBMなど)に挑み、一度は自分が創業した会社から追われると言う、幾多の苦難、葛藤を経て、Appleを世界ブランド企業にしたからヒーローなのだ。

身もフタもないが、これがストーリーである。

例外がありそう?

いや、ほぼ無いと断言出来る。

葛藤とそれを乗り越える様が描かれないお話は「ストーリー」では無くて「散文」であり、英語でプローズと呼ばれるモノだ。


全ての文章が「ストーリー」である必要はない。
ブログやコラム、論文などでは「ストーリー」ではなくても優れた文章は多い。

ここで明確にしたいのは、人が熱狂するようなハリウッド映画の主人公にしても、ブランドにしても、人の感情を揺り動かすエピソードは必ず「葛藤」を乗り越えるストーリーを持っているという事実だけだ。


「葛藤」を乗り越えるストーリー構成


その構成とは簡単に言うと次のようになる。

1.Call to action (アクションが必要となるきっかけ)
2.Refusal the call (行動しても失敗をしてしまう。億劫な心や物理的な葛藤や試練)
3.The Journey into the unknown (葛藤を乗り越える為の旅。旅とは「旅行」ではなく、苦難を乗り越える為の行動のこと。)
4.Return of the Hero(晴れて葛藤を克服した主人公となって試練の旅から帰還する。)


1.Call to action (アクションが必要となるきっかけ)

タイタニックのジャックはポーカーで夢のチケットをゲットした。
貧乏生活から抜け出す為に新天地ニューヨークを目指す。

ある中年コヤジはしけた不良中年にならない為に、お金払ってでもご遠慮したかったランニングを始めた。
僕の事だ。

2.Refusal the call (行動しても失敗をしてしまう。心や物理的な葛藤)

不朽の名作「がんばれベアーズ」はリトルリーグの弱小チームが主人公だ。
なんとかチームの体裁を整えて試合に臨むが、連敗してしまう。しかもチームの監督はしょぼくれたオッサンだ。
まさに王道な設定。

中年コヤジは走り出す。最初の200Mでつらくてタマラナイ。
俺は一体何の為にこんな事をしてるんだ、というメンタルの葛藤と、
息があがって過呼吸みたくなってしまい、ふくらはぎが千切れそうになるくらいに激痛というフィジカルな葛藤にやられそうになる。
僕の事だ。

3.The Journey into the unknown (葛藤を乗り越える為の旅。旅とは「旅行」ではなく、苦難を乗り越える為の行動のこと。)

ゴッドファーザーのマイケルは、距離を置いていたマフィアな父が凶弾に倒れた事で、自らの運命を知る。
自分はマフィアにはなりたくない。しかし、血と運命には逆らえないのだった。

アスリートで優しい仲間からランニングの指南を受ける。
シューズ選び、テクニック。
もう戻らない決心をしたのだ。しけた中年には。
僕の事だ。

4.Return of the Hero (晴れて葛藤を克服した主人公となって旅から帰還する。)

スターウォーズのルークは、最大の敵が父親だったという葛藤を乗り越え、帝国軍を倒す。
彼は父親のダースヴェイダー卿をも改心させ、銀河に調和をもたらし、真の英雄となって帰還する。

そしてクドいが僕のランニングストーリー。

走りながら「ほら、やめちまえよ。こんな苦しい事続けて一体何になるんだ?え?お前は究極のアホだ」ということを、際限なく繰り返しささやき続ける悪魔なダークサイドにいる自分という「本当の敵(究極の葛藤)」と闘い続けた。


そして、ある時「Moment of the truth. 真実の瞬間」が訪れる。


「四六時中苦しい時間=ランニング」と言う所から、「あれ?苦しくない!」という「ゾーン」に達したのだ。

葛藤を甘んじて受けたモノにしか訪れない、「 一線を越える瞬間」だ。

僕は晴れ晴れとした面持ちで、自宅のドアを開け、シャワールームへ直行したのだ。

僕はヒーローとして帰還したのだ。

そしてここで終わってしまっては、ただの陳腐なストーリーだ。

このストーリーがカッコ良く、真のヒーローズジャーニーとして完結するには、大きなイベントが必要だ。


具体的に言ってしまえば、それはホノルルトライアスロンやホノルルマラソンや東京マラソンとかそういうビッグな舞台に出場し完走する、とかいうエンディングが必要なのは言うまでもない。


と、まぁこのように、「ストーリー」には葛藤を乗り越える試練と未知の旅とその旅からの帰還が必須だということが分かると思う。



まとめ。


文章やプロダクト、サービスで「ストーリー」を語ろうとする時は、まず「葛藤(Conflict)」を探そう!

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