そういうことを南カリフォルニアの強い日差しが照りつけるマンハッタンビーチのカフェでラグニタスの絶品ペールエールビールをグビグビ飲みながら考えた。
のどかなのに高級感漂うマチュアなマンハッタンビーチ。 住人は洗練されてて、この空気感は心底魅力的だ。 |
この二週間で、東京、ホノルル、LAといった場所で過ごした。
3月上旬の東京は真冬並に寒く雨が続き憂鬱な気分になってしまった。
ホノルルは記録的な低気温で、そしてLAはほとんど真夏だった。
半年振りだった。
アンチLAだった僕は前回のLA旅行で自分が間違っていた事に気が付いた。
その時のブログはこちら。
なので、今回の旅ではかつての同僚で現在LAに在住している数人の仲間に会って実際のLAライフを根掘り葉掘り聞く事も重要なアジェンダの一つだった。
その仲間は全員が女子だ。
日本のアホみたいな旧態依然とした男社会に見切りをつけ、LAで活躍している彼女らは日本の「キラキラ女子」と言う言葉が、くすんで感じられるほど「キラキラ」して眩しかった。
そして、僕は改めてLAという都市の魅力に取り憑かれてしまったのだ。
LAは観光に向かない街だ。
はっきり書くと「そこに暮らす住人」の為の都市だ。
なので、今回の旅ではかつての同僚で現在LAに在住している数人の仲間に会って実際のLAライフを根掘り葉掘り聞く事も重要なアジェンダの一つだった。
その仲間は全員が女子だ。
日本のアホみたいな旧態依然とした男社会に見切りをつけ、LAで活躍している彼女らは日本の「キラキラ女子」と言う言葉が、くすんで感じられるほど「キラキラ」して眩しかった。
そして、僕は改めてLAという都市の魅力に取り憑かれてしまったのだ。
LAは観光に向かない街だ。
はっきり書くと「そこに暮らす住人」の為の都市だ。
個人のライフスタイルを最優先するような住人に適した都市なのだった。
何しろ、街が面として巨大に広がっているし、人の行動の基本は「車」だし、メッチャ直線的だ。
流されてどこかに辿り着く、ということはありえない。
どんなに疲れていても移動中に寝ちゃったりすることも出来ない。
この素晴らしい気候とインデペンデントでチャレンジングな風土を「価値」とするような住人が主役の場所なのだ。
世界の都市をそれぞれ比較するのはあまり意味が無い。
LAに来る直前に1週間滞在していた東京では雨が続いていた。
気温も真冬並で、僕はあと一歩でウツになってしまいそうな気分だった。
地下鉄では誰しもが黒い服を着て下を向いていた。
そういう時はついつい意味ないとわかっていても比較してしまうのだ。
何故か分からないが、東京では個人の意志の優先順位がメチャクチャに低く設定されてしまうような感覚がリアルな気がする。
何故か分からないが、東京では個人の意志の優先順位がメチャクチャに低く設定されてしまうような感覚がリアルな気がする。
誰しもが我慢をしている感じだ。
個人としての理想のライフスタイルを実現するには障害と弊害が多過ぎる。
仕事というか「会社優先」な空気が充満している。
個人より所属しているどこかが評価の基準だ。
最近では「ベンチャー」とか「スタートアップ」ですら、「所属感」を漂わせていて正直気持ちが悪い。
「何やってるんですか?」「ベンチャーです」って会話が成立するのはおかしい。
もちろん今回の滞在でも気のおけない友人達との時間は愉快過ぎた。
港区、渋谷区をターゲットにして通ったラーメンは究極的に旨過ぎた。
寿司を食うなら世界のどこよりも東京がお薦めだ。
そいうソフト面では当然最高なのが東京だ。
海外から訪れる旅行者は東京に自分が住むイメージは出来ないけれど、最高に楽しい街だった、とか言ってくれる人が多い。
僕個人の感覚で言うと、LAに住むイメージは出来るけれど、観光のイメージが湧かない、という意味で真逆の都市だ。
ハワイに戻って、間髪入れずに旅立った僕を迎えたLAは東京と違って、30度を越える天気が続いていた。
真夏だった。
行く先々のレストランでクラフトビールが喉を通るたびに生きてると実感するような感じだ。
ハワイが神が創った楽園なら、LAは人間が造った理想郷なのだ。
一週間前に、東京の雨と寒さと地下鉄でウツになりかけた僕は、ここで一気に息を吹き返したのだった。
この都市は完全にどこまでも人工的だ。
僕の知る限りのどの世界の都市とも成り立ちが違う。
一週間前に、東京の雨と寒さと地下鉄でウツになりかけた僕は、ここで一気に息を吹き返したのだった。
この都市は完全にどこまでも人工的だ。
僕の知る限りのどの世界の都市とも成り立ちが違う。
(そういう人口的で慢性化した渋滞やコンペティティブな環境を嫌ってより人間的なライフスタイルを求めて、コロラドとかの地方都市に移住する人も多い。)
あるストリートを境に景色がガラッと変わってしまう。
お洒落な人々が無防備に笑顔で歩いているワンブロック先では、怪しげな男達がたむろしているような街だ。
あるストリートを境に景色がガラッと変わってしまう。
お洒落な人々が無防備に笑顔で歩いているワンブロック先では、怪しげな男達がたむろしているような街だ。
(都市はそれぞれ問題を抱えている。
だから僕は無条件にLAを崇め奉っているわけではモチロンないです。)
LAはそれぞれ趣きの異なる街が広大に連なっている大都市だ。
LAはそれぞれ趣きの異なる街が広大に連なっている大都市だ。
そして、それぞれの街はそれぞれの主義主張を明確に持っている。
東京で言うと、確かに二子玉川と錦糸町では全く街の性質やキャラは異なっている。
でも、その差は間にある区や街、駅を挟んでグラデーション的だ。
気が付くと別の街になっている印象はとても曖昧でいい意味でも悪い意味でも日本的だ。
明確に「ここからここは違う場所」という線引きする意志を感じる事は無い。
僕のかつての上司であるアメリカ人は神田と銀座の区別が最後まで出来なかった。
え!全然違うじゃん!とか思って指摘しても、彼は「いや、どうみても同じ街だ」という感じだった。
LAの場合は、部外から訪れた人間でも、明らかに街の空気の違いやそこに存在する意志を感じる事が出来る。
人口的な街だから故に、そこの行政や住人の「この街はこうあるべき」という意志を感じるのだ。
そこには「観光客」という「部外者」を優先する価値基準は無い。
そこで生活している人間が構成する個の集団や家族の価値観が優先され、反映されているのだ。
この一年を通じて雨が少なく、太陽の日差しと気候からとてつもない恩恵を得る事の出来る大都市は、もともと何も無い砂漠だった。
大昔、ゴールドラッシュの時代に一攫千金を夢見た冒険野郎達と東部のエスタブリッシュメントから袂を分かった人々の意志が反映された都市がこのLAだ。
人口のほとんどを構成する新旧移住者達の「思い」ががっつり反映されている都市がLAなのだ。
どのように自分の人生をデザインし、どのように暮らし、どう地域の一員になっていくのか。
今回の旅では、滞在したホテルがある、ダウンタウンからカルバーシティ、マリナデルレイ、マンハッタンビーチ、そしてニューポートビーチまで素晴らしい街の息吹を感じに車を走らせた。
僕は自分のライフスタイルに自分の意志を反映させているだろうか?
そもそも自分の意志を持って人生をデザインしているだろうか?
この素晴らしい太陽とビーチと環境を人間にとって最適化した人工的で意志を持った都市でもいつか暮らしてみたい。
そう確信した旅だった。
ちなみにもちろん「ヤバそう」所は行っていない。
そういう所はそういう所で邪悪な「意志」が蔓延しているので、ノータッチがベストに決まってる。
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