Koy's blog

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2015年7月9日木曜日

日本の夏。中年の夏。そう「恋は、遠い日の花火ではない」のだ。

伊勢丹新宿店本館のビアガーデン「夜空ノ庭」がいい感じみたいだ。

僕が尊敬して止まない先輩が経営する会社が運営しているということで、その存在を知った。

そのテーマは「和」だ。

わしくはこちらにリンクを貼っておこう。

色んなイベントがあるようで、その中でも僕の目を引いたのは


「日本の夏、日本の恋」
というキャッチがついた「浴衣イベント」だった。




これのリンクはこっち。。

大きなお世話だが、このキャッチコピーが「日本の恋」だけだったら、全く意味不明だったろう。

この言葉の前に今までキンチョーが独占していた「日本の夏」をバシッとくっつけることで、俄然コピーとしての情緒が高まっているのだ。

夏、浴衣、和なビアガーデン、そしてほろ酔い気分。
そして、かすかな恋の予感。

まさにニッポンだ。
ニッポンの夏だ。
ニッポンの花火だ。

控えめなのに、情熱を奥底に秘めたニッポン情緒にあふれたひと夏への思いが伝わって来る。


まるで肌の露出が少ないのに色気漂う浴衣の女性のようだ。

夏のフロリダのビーチで、セクシーな女子大生達が薄いTシャツに水をかけられて「ヒーハー」「ヒャッホイ」と繰り広げられるウェットTシャツコンテスト。。


みたいなアグレッシブさからはまるで遠い。


濡れて透けた胸元を大胆に見せびらかすウェットTシャツ vs. 胸元のあわせをスッと直すしぐさが小粋な浴衣。


僕の好みは、もちろん・・・。両方だ。

そして、花火は夏の恋のメタファーだ。


儚く散る運命にあるけれど、パッと真夏の夜空にひと夏の夢を描くのだ。

きっとその恋は、成就することがあってはならない。
一瞬の幻であって欲しいのだ。

桑田圭祐が歌う夏の恋の歌も大抵「ひと夏」で終わっている。

厳しい冬をとても越えられないような、短命かつ儚く脆く、そして情熱的なものであって欲しいのだ。

だからこそ、切なく、記憶に残り、また巡って来る夏への想いが募ってくるのだ。

ところが、歳を重ね、いつしか、ひと夏の恋は、遠い過去のイベントとなる。

そして思うのだ。
「あの頃は良かった」と。


この「日本の夏、日本の恋」そして「夜空ノ庭」というひと夏のイベントを聞いた時、僕が思い出したのはひとつの秀逸なコピーだった。



「恋は、遠い日の花火ではない。」


Credit: サントリー オールド広告ライブラリー


サントリーオールドの20年も前のCMの名コピーだ。


小野田隆雄氏という広告界の大御所であり希代の名コピーライターのコピー。


告白すると、当時20代前半だった僕には全くもって意味の分からない物だった。

このコピーは当時もかなり話題になった。


支持したのは、当時50代手前の団塊の世代の人達だったと思う。


彼らが商品のターゲットでもあった。

CM自体も、中年の星、長塚京三さんが出演し、20代の女性から想いを寄せられる設定だった。

さっき、僕には意味が分からなかった、と書いた。

正直に言おう。

「中年のオッサンの夢と幻想」を描いた下らないコピーだと実は感じていたのだった。


若いオネエちゃんから想いを寄せられる中年なんて、幻想以外なんでもないじゃないか!

くたびれたオッサンならオッサンらしく、今の現実を生きてくれ。


いつまでも若いつもりでいながら、俺たち20代の前でオールドを飲みながら説教、自慢話をしないでくれ、とか思っていたのだ。

ところが、自分も50代まであと数年という所まで来て、20年以上も前に見たこの広告のコピーを思い出してしまったのだ。


そしていかに素晴らしい名コピーだったのかやっと理解することが出来たのだった。

40代から50代というのは世間的にはミドルエージクライシス、中年の危機に陥るお年頃だ。


全然若くもないが、リタイヤするほどジイさん、バアさんにもなってない。

かと言って、やみくもに自分の夢や可能性だけを信じて突っ走るのは現実に抱えている物が多過ぎる。

そして、今や自分が何者であるか。
もっと言えば何者でも「無い」というリアリティに気付いてしまった年齢でもある。

それでも、毎日を生きなくてはならない。
せっかく生きるのならポジティブに生きたほうが断然いい。

そういう時に「恋は、遠い日の花火ではない。」は響きまくる。

若き日々に感じたパッションは、決して遠い過去の物ではない。
今、もう一度燃え上がらせることが出来るものなんだ。

そうこのコピーは教えてくれている。


自分の中に、もう一度感じるかすかな灯火。

そのかすかな灯火が、あなたの情熱の炎を再燃させるのかも知れない。

その気配を少しでも感じてみよう。
自分の中の情熱を。
花火のような情熱を。

若かりし日々に一度でも自分の中に「花火」を見たことがあるのなら、ミドルエイジになって見る「花火」の性質はきっとあの頃と違う物だろう。


それが、仮に幻想めいたものであっても、それがどうした!


自分が「何者でも無い」なんて本当か?

あなたは、30年、40年、50年生きて来た自分自身のストーリーを持っているはずだ。

そっちが本当のリアリティだ。


「オレは、ワタシは、他の誰でも無い、自分自身なんだ!
自分の中には、まだ情熱の炎が燃えている」と気付くのは素敵なことだ。

そして、満足げに冷えたビールで喉を潤すのは至福の時間だ。

とここまで書いて、サイトを見てみたら、このビアガーデン、ビールの提供は何とサッポロビールだった!


とういうか、ほとんどサントリーの回し者みたくなってしまった。

サッポロさん、すみません!(汗)
ここはフェアに、サッポロの名コピーで終わりにするとしよう。

そうです、この夏「男は黙ってサッポロビール!」

皆様、よい夏をお過ごし下さい!


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2015年7月7日火曜日

その日は突然に来る。準備は出来ているか?


賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ


有名なビスマルクの言葉だ。

僕は愚か者の代表選手なので、意識して他人の経験(歴史や書物)を頭に叩き入れようと努力している。

そしてそこからのラーニングをなんとか行動につなげようとしている。

それでも、「自身の体験」にまさる「学び」は無いな〜とか思う事が多い。

本は読んだ時だけ、ふむふむと共感し、感銘を受けるものの、恐らく得た知識の10%も身についていないのではないだろうか?

本をいくら読んでも、実際に行動しなくては身に付かないし、ただの乱読は時間の浪費だ、ということも最近分かって来た。

「愚者は基本的に経験から学ぶが、なんとか歴史(他人の経験)にも学ぶ事を意識しよう。」

みたいな感じで意識するしかない。

ところが、唯一自分の経験が活かされないカテゴリーがある。

それは「自分の死」だ。


自分が死んだら一巻の終わりだ。


つまり「死」というものは他人の経験からしか学べない代物なのだ。

しかし、自分の「死」をイメージするのは難しい。

きっと明日もある、とぼんやり思って日常を送っているからだ。

下血して意識を失い、ERに担ぎ込まれて輸血をして何とかサバイブしたような経験を持つ僕ですら、数年経ってしまうと、あの時ほど「自分の死」というものを意識しなくなる。

なんとなく、平均寿命か願わくばそれ以上の人生を全う出来るんじゃないか、という感じで生活している。





そんなのは幻想だ、

と、この若き外科医はこの自著で述べている。


ヒトの「死」は大抵突然に訪れる。


突然、何の前触れも無く、余命を宣告される。

日本でもトップレベルのがん・感染症センターの外科医として忙しく働く彼は、予期せぬ余命を告げられて、動揺し、運命を呪いながら最後を迎える老若男女と現場で接している。


毎日毎日だ。


日常的に人を看取っているのだ。
それも、医師として葛藤を抱えながら。

よく考えなくても一般人にとっては日常を超越した日々だと分かる。


「若造の外科医である自分がなぜ、『死』に関する著書を書こうとしたのか」


彼は自著でこう述べている。

「自分が医者としてのキャリアも浅く『達観』できないからこそ、いちいち傷つき思い悩んだからこそ、感じるものや見えるものがあったのではないかと思っています。」

この一文が彼の初めての著書である本書を説得力のある物にしていると僕は思う。

毎日毎日、人の死に向き合うなんていうのは、この平和な日本で恐らく彼のようながん病棟みたいな所で働く医師と看護師のみなさんくらいだ。

熟練の医師になれば、恐らくそういった現状を受け入れる訓練と言うか、慣れによって自分のメンタルを保つ事が出来るプロになってるはずだ。

彼はまだ8年目だからこそ、非常にピュアな思いで、患者さんの死に向き合わざるを得ないのだ。


そして、自分の経験を通じて、「死」を意識して欲しいと読者に訴えかける。



彼のメッセージはシンプルだ。


「人に死は必ず訪れる。

それも恐らく突然にだ。
だから、今出来る事は今しよう。
明日シアワセになるのではなく、今日シアワセになろう。
その為には少し「シアワセ」になる為のハードルを下げたっていいじゃないか」

と言う風に僕は受け取った。


そして「後悔するように生きろ」とも言う。

(その意味は是非著書で。。) 

最後に、僕は世の中に様々な職業があれど、医師と看護師ほど尊いものはないと感じている。

よく大病院は待ち時間3時間で診察時間が3分とか揶揄される。


しかし、それは仕方が無いのだ。

そういう大病院の多くは今この瞬間に「死」を迎えてしまうかもしれない患者を救おうと懸命な努力をし、
そして最大限の時間を使っている。

僕が緊急病棟に担ぎ込まれた時、そこはいわゆる「3時間と3分」な大病院だったが、そこの医師、看護師のチームワークと対処は見事だった。


(意識が薄れている中で、常に大声で声をかけてもらった。そのドクターに回復した後に会ったが、とても大声を出すような人には見えない紳士だった。それがドクターだ。)

感謝してもしきれない。


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2015年7月5日日曜日

最近よくある特定の国や国民性を擬人化してレッテル貼りをしちゃう件について

ブログの更新が大幅に滞ってしまっていた。

ネタが尽きた。。。


とかそういう訳ではなくて、逆に書きたい事があり過ぎて、書き始めるとありとあらゆる方向に話が飛び過ぎてしまって収集が付かなくなってしまっていた。

何かを伝える為には「Single Minded」でなくてはダメだ。
日本語で言うと、「徹底的に一つのテーマに限定」することが必要だ。

やみくもな散文ではせっかくこのブログを読んでくれている人に何も伝わらず、時間の浪費を強いてしまう。


ということで、僕はブログのドラフトをevernoteに書いてるのですが、ブログとしてポスト出来ないような「散文」が一ヶ月分溜まってしまっていた。

そうやって、一ヶ月分の駄文を改めて読んでいたら、「何が言いたいんだよ、これ?!」みたいな反省とともに、その中から大きなテーマがいくつか見えて来た。

そのウチの一つを今日は書こうと思ってます。

それは「国や、そこの国民性を擬人化して語るのはヤメよう!」ということだ。



僕はここ数年見かけられる、日本の自治体がゆるキャラを作って広報活動する風潮が嫌いだ。


ふなっしーとかクマモンに喧嘩を売るような発言だ。
ただ、どうしてもその土地柄とゆるキャラとの間に何ら関連性を見出す事が出来ない違和感があって仕方ない。

今後の仕事のテーマの一つとして、そういう風潮に風穴を空けたい、という野心を持っているのですが、その話は別に譲るとしよう。


今日のテーマは「ゆるキャラ」をディスるモノではない。。


要するにこういうことです。


ある自治体や都市や国を特定のキャラで括るのは、一瞬分かりやすいが、とても危険な行為だと僕は考えているのだ。

例えば、あなたは「韓国」「中国」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?


最近では随分ネガティブな印象を持つかも知れない。
それは「敵キャラ」みたいな感じだ。

その根本には「反日」「領土問題」だったり「公害」だったり、「旅先でのマナーのヒドさ」だったりするニュースに接した事があるのかも知れない。


もしかすると、実際にそういうネガティブな経験をしたことがあるのかもしれない。

でも、そうやって特定の国や地域やそこに暮らす人々にある「レッテル」を貼る事は、とてもイージーでそして危険なことだと思うのだ。


本来、一個人として存在している人々を安易に括ってしまう事になるからだ。 

大抵、ニュースなどに取り上げられるのは「ノイジーマイノリティ」の人々の声だったりする。
よくある非常識な「クレーマー」とかもその範疇だ。

ノイズを上げれば、マスメディアはそれを拾う。
そしてそれは大概ネガティブな要素を含んでいる場合が多い。
そして拡散していくのだ。

だから、ある特定の国・地域の人々のことを語る時に、そのエッジの立った情報だけで判断して、勝手にキャラ付けしレッテルを貼ったりするのは、大きく判断を間違う事にもなり得るのだ、ということを肝に銘じた方がいいと思うのだ。

先の「ノイジーマイノリティ」に対して「サイレントマジョリティ」という言い方がある。


「モノ言わぬ多数派」だ。


そして、サイレントマジョリティこそが、普遍的で人間的な価値観を国境を越えて共有できる大多数の人々だと僕は感じているのです。
僕は幸い(というか意図的に、だが)、10代から40代の今に至るまで、多くの国をビジネスも含め旅をして、そして多くの国籍の人間と友情を育む機会に恵まれた。


(世界的なサッカー選手だったや中田ヒデ氏とか作家で世界中を旅して周る友人などには遠く及ばないのはモチロンだ。。)

そこで言えるのは、マジョリティを形成する人々の人間的な本質はどこでも大きく変わらない、ということだ。


誰しもが平和を愛し、人に恋をし、夢を持ち、家族を作り、ささやかな記念日をお祝いして、毎日の生活を送っている。

もちろん、土地や文化的背景からの影響や個人が持つ個性の存在は否めない。
それが気質に現れる、というケースは無論ある。


アフリカの奥地やアマゾン川流域に暮らす人々とは接点を持った事が無いから、そういう人達の人間性を語る資格は僕には無い。

僕が言ってるのは、少なくとも近代化を果たして、共有する市場経済の中で生活している外国の人、ということだ。
そういう前提において「何々人だからこうだ」という良くあるキャラ付けやレッテル貼りほど当てにならない物は無い、というの
は事実だ。

例えば、ハワイに暮らすとハワイのローカルの人達の仕事がユルくて、仕事の質が当てにならない、とかいう話を聞く。
一瞬、「だよね!」とか思ってしまう。

ところが、それは彼らが「ユルくて」仕事が甘いのではなくて、「別の価値基準」を持っているから、だと言う事が出来る。


単純にハワイに暮らす「ある個人としての」日本人には「ユルく」見えてしまうだけかも知れない。

僕が同調して「ハワイアンはユルいよな〜」とか発言する理由は実は無かったりするのだ。


少なくとも、僕が接したハワイのプロフェッショナルはきっちり仕事をしていた。

ただ、集団が暮らす中で醸成されたスタンダードに差異が存在しているだけで、「人間性」に差異は無いと思っている。
ましてや、どこの国籍を持つからこういう人間だ、という決めつけなど出来る訳は無いと思っている。






僕には親友と言える韓国人がいる。
世界的に有名な韓国企業に勤めていたが、クリエティブな仕事がしたくてグローバルな広告会社のソウル支社に転職したような男だ。
彼は日本のポップカルチャーをこよなく愛し、日本文化へ深い敬意を隠そうとしない。


また数年前、自分の会社の国際会議が上海で開催されて、僕はそこで小グループで行うワークショップに参加した。
チームメンバーには、上海支社で働く、台湾人と香港人が含まれていた。


(チャイナ本土と台湾、香港は歴史的&政治的な尺度で見れば別の国家であり地域だ。)
ランチの時には、昼間から飲んじまえ、ってことで皆でワインのボトルを空けた。
当時日本では中国の領海侵犯が話題になっていたが、彼らはそんなことは台湾と中国の間では日常茶飯事だと笑っていた。

20代の中盤の頃に長期滞在したクアラルンプールでは、華僑の若手のビジネスマン達と仲良くなった。
夜の会食の際、少し遅れて僕がジョインすると、彼らはそれまで福建語で話していたのを瞬時に英語に切り替えた。

彼らにとって複数の言語を理解し話すのは生まれた時から当たり前のことだと言った。
福建語を話せない人間がグループにいれば、言葉を英語にするのは当然なことなのだ。

上海に拠点を持つクリエイティブディレクターは生粋の中国人だったが、自分の仕事が自国や世界を良くする事を心から信じて仕事に誇りを持っていた。
日本のクリエイターとコラボすることは価値がある事だが、彼らは教育レベルも高いのになぜ英語が苦手なのか、と真顔で聞いて来た。

彼らはニュースで見聞きするいわゆる中国人、台湾人、韓国人とは全く印象が異なっていた。

もちろん、国家間の政治レベルで多くのイシューが存在していることは事実だ。


強制慰安婦問題、領土問題は、典型的な政治イシューだ。

僕は日本の政治家には日本の国益を最優先して活動して欲しいと真に願っているし、期待している。


日本を貶めるような報道をするようなイデオロギーに凝り固まった報道機関が存在しているとしたら、それらを信用することはない。

また僕が出会った海外の友人達が、ごく一部の人達だということも事実だろう。

だからと言って、僕らがそれぞれの土地に住む個々人を政治やイデオロギー的な色眼鏡で見る事を前提にする必要はないのだ。

今は情報統制の時代ではないはずなのに、むしろ自分の目で物事を見て行こう、という空気が薄くなっている気がしている。


少なくともネットやマスメディアからの情報だけを見ていると、特定の団体、国民に対するレッテル張りが横行している気がしてならない。

「ノイジーマイノリティ」から発信された神話を信じる前に、自分の目でモノを見て、そして「サイレントマジョリティ」を形成する人々に実際に出会うことが必要だ。


そして彼らと直接の関係性を持つことが、きっと世の中を良くして行くはずだと、僕は信じている。